そのコ・・・ユウくんに会ったのは、本当に偶然だった。
その日は定時は仕事にあがり、俺はパルコ内の藍子との待ち合わせのカフェへと向かうために急いでいた。
藍子は、時間に煩い。
・・・・・・・しかし俺はゆるゆると歩く。
黄昏時の街の空気はまったりとしていて・・・・・俺はこの時間の空気はわりと好きだ。 のんびりゆったり、たゆたうような・・・・・。 空気に、微妙な質感があるのだ。
その中を、のらりくらりと歩くのが俺は好きなのだ。
大津通は帰途へと就く車でびっしりと埋まり、歩道には一日の仕事を終えた人々の、どことなく呆けたような顔がある。 赤信号で足をとめ、腕時計に目をやると、6時15分少し前。 約束の時間だ。 カフェに着くのは確実に3、4分の”チコク”になるだろう。
俺は内心舌を打つ。
藍子のお小言をまた聞かねばならないのかと思うと若干憂鬱な気分だ。 なんとなく鞄を抱え直し背広の襟を整え、威儀を正して、降り注いでくるであろう”お小言”に身構える。
・・・・・と。
そのときだった。
「コウスケ・・・・・・・?」
そう、呼ぶ声がした。 振り返ると、ほっそりとした男の子が立っていた。 驚いたように見開かれた黒い目は、ひどく幼い印象で、そしてとても澄んでいた。
「あ・・・すいません、俺・・・・・」
下を向いて、小声で謝罪する。
「間違えちゃったみたいで。知り合いと・・・・・」 「そう」
俺は笑った。 人違いなんてよくあることだ。そんなに恐縮することないのに。
申し訳なさそうに身を縮めてうなだれるその子の様子は、なんだかとても可愛らしかった。
信号が青に変わった。 俺は、歩き出そうとした。
・・・・・と。
俺の肘は、その男の子に捕らえられていたのだ。 華奢な、ほそい指だった。
俺は、その子を見た。
黄昏時のひかりを含んだ深い色の黒い目が、俺をまっすぐに見上げていた。 俺は、思わずその目を見返した。
いや、”見返した”というより・・・・・”惹き込まれた”のだ。
磁石に、ひかれるように、強烈な吸引力で。
その目は俺が今までの人生において目にしてきた目の中で、最も艶やかで、最も蠱惑的な目だった。
「あの」
その子は言った。
「お暇ですか?・・・・・・今から」
俺は・・・・・・・こともあろうに、頷いていた。
その子は、はにかみげに、しかしうれしそうに微笑った。 白い薔薇の花が、ほころぶような、そんな笑みだった。
「お腹すいてる?」
俺が問うと、その子は『少し』と答えた。
「じゃ、ちょっと歩くけど・・・・・ロフトの裏のほうにいい店があるんだ。魚介はすき?」 「・・・・・はい」
その子は、頷いた。 俺は先に立って歩き出した。 俺は片手で携帯を取り出し、藍子にメールを打つ。
『ごめん。残業が入った。今日はちょっと会えない。この埋め合わせは土曜に』
・・・・・・なんということ。
俺は、この子にひょっとしたら”ナンパ”されたのかも、しれない。 しかも、俺は、それに乗った。 女とのデートをすっぽかして。
それも・・・・・ひとつ返事で。
確かに、ちょっと見ないような綺麗な子だ。 はにけみげな、ういういしい様子にも、かなり惹かれるモノがある。
・・・・・・しかし、男だ。
俺は、自分が案外チャレンジャーなのを知った。 オトコはいくらなんでもいただけないだろうと、思っていたのだが。
でも・・・・その子には、”男”だの”女”だのと拘泥させない、不思議な超越的な魅力があったのだ。
・・・・・いうなれば「蟐娥燈のような」、そんな魅力。
他人を・・・・・惹き込む。 その、妖美な燐光で。
・・・・・・・その類稀な艶美を湛える少年の名は、『ユウ』と言った。
小樽から直送で仕入れた魚介をメインにした飲み屋に、俺はユウくんを連れて行った。 とりあえず、俺は生中を頼み、ユウくんはグレープフルーツチューハイを頼んだ。 とりあえず、ホタテのバター焼きと焼きガニ、海鮮サラダとゲソ足も頼む。
料理が来て、酒が入ると、ユウくんの白い顔はほんのりと朱く染まった。 潤んだ目が、なんとも色っぽかった。 俺も、何杯かジョッキを重ねるうちに酔ってきたらしい。
話していたら、ユウくんは成人していることが判明した。 21だという。 身体の細さと少女のように繊細な美貌が、彼を幼く演出していたのかもしれない。 酔いによって初対面の俺との差し向かいの気詰まりから解放されたのか、ユウくんはよく喋り、よく笑った。
そのさまは、花弁の多い優美な白い薔薇がゆるやかに開いてゆくように見えた。
ユウくんの笑う声は透明で甘い、柔らかな笑い声だった。
酔った俺の目に、ユウくんはこの上なくうつくしいものとして映った。 酩酊した俺の耳に、その笑い声は心地よく響いた。
・・・・・・・俺は、魅了された。
散々飲んだ。 そして、何を話してたのかよく分からないが・・・・・よく喋った。
時計は10時半を回っていた。
俺たちは、立った。 ユウくんの気配が、俺に寄り添った。
勘定を済ませると・・・・・俺たちは、暗黙のうちに”しかるべき場所”に向かって、歩き出した。
俺はユウくんの肩を抱き寄せた。 ・・・・・壊れ物のように、骨の細い、華奢な肩だった。
抱き寄せた身体から、清潔な香りのコロンが香った。
俺は、俺の身体の熱が静かに煽られてゆくのを感じた。 肩に回した腕を、腰に下げてもユウくんは抗わなかった。
かえって、俺になよやかに、身をゆだねてきた。
闇にとっぷり沈んだ街の・・・・・・・ネオンがやけに、綺麗だった。
そして、俺たちにまといつく濃厚な空気は、南国の花のような、甘い匂いがした。
オトコドウシでラブホテルに入るのは、はじめてのことだった。 なんとなく落ち着かない気分の俺の手をひいて、佑くんは照明の落とされた廊下を歩いた。 俺の手を引くユウくんの指先は、現実味がないほどに細く、そして冷たかった。 部屋に着くと、薔薇の花びらが水面に散らされた小さなプールがあった。 紗の天蓋の向こうにローベッドがあった。 これからそこで行われるであろうユウくんとの行為を思い、俺は身体が熱くなった。
・・・・・・・男相手に、欲情している。
そんな自分がなんとなく情けなくもあり・・・・しかしそれでいて「仕方がない」という諦念に似たような感情もあった。
ユウくんは、魅惑的なのだから。 ・・・・・俺は、魅せられたのだから。
「入る?」
ユウくんはそのプールを示し、俺を見上げて、イタズラっぽく笑った。 その笑みは悪童のようでもあったが同時にひどく婀娜っぽく、俺の目に映った。 俺は首を振り『風呂に』と、言った。 ユウくんは頷いた。 風呂場に行き、脱衣所でユウくんは素早く自分の服を脱ぎ捨てた。 そして器用な指先で俺の背広を脱がした。 その、手馴れた様子は初対面の世慣れぬ少年のようなういういしさはなく、熟練の娼婦のようだった。 ユウくんの裸体は、男性の特徴を有しながらも、ひどく両性的だった。 骨の細い華奢な身体、白くなめらかな肌は絖のよう。胸の突起は淡い桃色で、細いしろいうなじにまといつく長めの黒い髪はどこまでも扇情的だった。そして俺を見上げる、濡れた輝きを宿す、黒い双眸。俺は、惹きこまれるように腕を伸ばし、ユウくんを抱き寄せ、口付けた。 はじめは軽く・・・そして次第に深くなるその接吻に、俺は酔いに似た感情を感じた。 ・・・・・・・魅せられた、と思った。 ユウくんは、いままでに出会った誰よりも・・・美しかった。 ユウくんは、女でも、男でもない。 いわば両性具有者の、きわめてファンタジックな存在の、あやうい魅力。 ・・・・・・・抱きしめると、その身体はまるで、壊れ物のようだった。 そして水を抱きしめるような感覚があった。 ユウくんの身体は、水のように冷たく、そして・・・・本当にこの腕に捕らえているのかと疑いたくなるほどに、現実感の薄い身体だったのだ。 しかし、うつくしい。とても、美しい。
俺は、ユウくんに、溺れた。
風呂の中でソープごっこよろしくやってもらったフェラチオは、昇天しそうにヨかった。 ベッドのなかで・・・・・俺は、ユウくんを抱きながら「自分」というものを忘れた。 藍子に限らず・・・どんな相手とのセックスの間でも俺は自分を見失ったことは無かった。
俺は、幸か不幸かいつも自我を手放すことが出来ない。 ・・・・・いつも自分を監視している。そんな人間だ。なのに、「自分」を忘れた。
ユウくんの肌は、冷たく、身体を重ねると北の海に沈みこむような感覚を覚えた。 ユウくんの中は、信じられないほど熱く、狭く、俺をゆるやかに受け容れ、そして締め付けた。 行為が烈しくなると、ユウくんの冷たいしろい絖の光沢を持つ肌は、熱くなり、そして薄紅色に染まっていった。 俺の下で、ユウくんは、少しずつ、乱れていった。 ほころびかけた蕾が、花開くようだった。
やはり、白い薔薇のようだと思った。
花弁の多い、絢爛とした、馥郁たる芳香をかもし出す・・・白い薔薇。 薔薇が、花開くほど、その美しさは増し、その芳香を増す。
抽送をはやいピッチで繰り返しながら・・・・・俺は、言いそうになった。
『愛している』、と。
・・・・・嘘に決まっている。 会ったばかりの、しかも男相手に。 どうかしている、そう思いつつもその言葉は何度も俺の喉につきあがり、結局言えず喉元に絡まりついて発声されることはなかった。 しかし、確かに、思ったのだ。 イトオシイ、と。 それは、おそらく肉体的快楽に誘発された感情であったのだろう。 しかし・・・この、俺の下に征服している身体の極端な現実味の無さが・・・・俺に、そう言わせようとけしかけたのだ。『愛している』と。 その言葉によって、この、地上のものならぬ美しい白い薔薇が、俺の腕をすり抜けて、天に遊離していってしまうことを食い止めようと思ったのだ。
束の間の、幻惑の間だけの感情であったとしても・・・・・・。
愛している。
俺の、白い薔薇。
行為の最中、ユウくんの朱にそまったくちびるから俺は何度もある単語が溜息のように漏れるのを聞いた。 ひどく哀しい切ない声だった。 最初に出会ったとき、ユウくんが俺に、呼びかけた名だった。
・・・・・・『コウスケ』、『コウスケ』と。
あぁ、この子は恋をしている。 ・・・・・・・静かに、深く、しかし烈しく。 俺以外の男に。 俺にそいつを重ねている。 しかし怒りは、湧かなかった。 別にいい。・・・・分かっている。 この”関係”がゆきずりのものであると。 本気になったら、俺が馬鹿を見るというものだ。 いまは・・・・俺が代わりになるのだ。 俺の白薔薇の愛しい『コウスケ』に。
・・・・・だから、いまだけは、「愛している」。
俺の、白い、薔薇。
行為が終わり、俺は「自分」を取り戻した。 いつものように冷静に・・・・・「自分」をしっかりとこの手にしながら、サイドボードからセブンスターを取り出し、吸う。 ユウくんに勧めると『いらない』、と微笑った。 行為の最中の高貴な淫靡さに満ちた表情とはかけ離れた、透明な印象の笑みだった。
裸体のまま、腹ばいになって横たわるユウくんに、俺は煙草をくゆらせながら問う。 『また、会える?』 ユウくんは、少し「考えるフリ」をした。 そして言った。 『もう会わない』、と。 予想通りの答えだった。 俺は異論を差し挟むことなく、ただにまりと微笑い、ゆっくりと手を伸ばし、二本目の煙草を取った。 ・・・・・つれない俺の白薔薇に、ちょっとした意地悪をしたくなる。
「ねえ」 俺は聞いた。 「『コウスケ』って、誰?」 俺の問いに、ユウくんは僅かに目を見張った。 「俺・・・呼んでた?」 「うん」 ユウくんは、すまなそうにうつむいた。 その様子は、はじめて会ったときの、幼く無垢な印象だった。 「ごめんなさい」 「謝ることないよ」 俺が笑うと、ユウくんはやっぱり申し訳なさそうに声の調子を落とした。 そして、言った。 「俺の・・・・・・・すきな人」 「そう」 俺は笑った。 「あなたに、少し似てる」 「そう」 俺は三本目の煙草に火をつけながら頷いた。 ・・・・・・俺はやはり”代わり”にしか過ぎなかったらしい。 煙草の煙を深く肺に吸い込み・・・・・そして吐き出しながら、俺は、俺を魅了してやまないこの美しい白い薔薇に想ってもらえる果報者にすこし、シットを覚えたのだった。
ホテルをチェックアウトして、俺たちは別れた。 『さよなら』と、俺に陽光の中で笑ったユウくんの白い顔は、清浄で高貴な白い薔薇そのものだった。 俺も別れを告げ、俺たちは背を向け合い、それぞれ逆の方向へ歩いていった。 振り返りたかったが、振り返れなかった。 いま振り返ったら、俺は一生戻れなくなる。
・・・・・・そんな錯覚を、覚えたのだ。
通勤する人々のごったがえする道を、俺も歩いた。 昨日と同じスーツのまま出社したら、随分ひやかされるだろうなと思いながら。
天を仰いで、陽光を目を眇めて見る。 明るい朝の太陽の下、昨夜のできごとは、まるで夢のよう。
夢でも、かまわない。
・・・・・・・俺の、白薔薇。
豊潤な夜のなか、花開き、馥郁と香りたつ様を・・・・・・俺に見せてくれたのだから。
俺の、白薔薇。
もう、会うこともないだろうが・・・・・俺は、たとえ一夜だけでも恋したきみのしあわせを、願ってやまない。
『コウスケ』・・・・・そう、呼んだときの彼の顔は、俺の腕のなかで果てるときよりも美しかった。
その表情は、夢を恋うるひとの・・・・・憧憬と浄福に満ちた、きよらかでうつくしい顔だったのだ。
【薔薇 fin】
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