僕は石崎春季(イシザキハルキ)。 15歳の受験生だ。 両親が外国に行っているから、兄貴の翔(ショウ)とマンションで二人暮しだ。 実際のところ、2つ上の翔は家事全般がまったくできない。 去年の春に両親が渡米してからというもの、僕は受験生なのにもかかわらず、 料理・洗濯・掃除etc・・・などなどをするはめになって、今では家事全般習得寸前の腕前だ。 翔の役割? 僕の家庭教師かな。 翔は、家事全般はできないけど、どうやらおつむだけは良いらしく。 高校では成績優秀で、一回通知表を見せてもらったら10という数字が上から下まで埋め尽くされていて、僕は鳥肌がたったのを覚えている。 というわけで、主婦(?)の僕は塾に通う暇なんてないから翔に教わっているんだ。そして、今日が試験日。でも、てんぱっちゃってる僕なので、なんらかの失敗をするのは確実なのだ――。
「兄貴っ!僕の受験票知らない?!」 昨日の夜にカバンに入れといたはずの受験票がない。 あれがないと僕は受験できない。 翔はまだ眠そうな顔をしてベッドから起き上がり、春季のいるリビングに移動する。 「どうした・・?ないの?」 翔が声をかけると春季は泣きそうな顔でカバンの中を探っている。 「ないよ~っ!ええ、どうしてぇ?」 半泣きだ。 そんな弟を可愛いと思う兄は眼鏡をかけて、辺りを見回した。 神棚にそれらしきものを発見。 神棚に置かれた受験票を手にとると、居心地悪そうな真顔の春季の顔写真が貼り付けてあった。翔はそれを見て唇の端を少しだけつりあげた。 フローリングに座り込み、絶望の際にいる春季に、あったぞ、と声をかける。 「あった!?」 走り寄る春季に受験票を見せた。 「よかったぁ~、ありがと~!!」 翔の手から受験票を貰おうと、手を広げてきた春季に、翔は意地悪をしたくなった。 「言葉より、態度で表して欲しいな」 春季は翔の言ったことがすぐに理解できなかった。 ☆ ☆ ☆ ☆ 受験校の教室は一クラス分の受験生が詰まっているのに、気味が悪いくらい静かだ。 それも当然で、皆真剣なんだから、持ってきた用語集などで勉強している。 ちょっとばかり遅れた春季は、頬を紅潮させて席についた。 頭の中は先ほどのことでいっぱいだ。 受験どころではない。 焦っていたとはいえ、自分のしたことが今さら追い討ちをかける。 一時間目の試験官が説明を始めた。 鉛筆と消しゴムを出して、カバンを椅子の下に置く。 春季は膝に手をついて、背筋をぴんと張り、行儀よく説明を聞いているように思われそうだが、頭の中は実の兄、翔の唇の感触で支配されてしまっていた。 ★ ★ ★ ★ 「態度?」 背の高い翔を見上げる春季の行動すら、翔を煽ぐ。 翔の長年の密かな想いを知らない春季はそんなことは露知らず。 「そう。キスしてくれたら返してあげる」 唖然として固まる春季を見下ろす翔は意地悪な顔で唇の端をつりあげた。 「や、やだよ何それっ。ふつうに返してよ~!」 なぜに受験票を返してもらうために翔とキスをしなくちゃいけないのだ。 しかも、キスを条件にする翔がわからない。 兄弟でキスなんて、絶対おかしい。 「そっか。ハルは残念だったね。俺も残念だよ、あんなに教えたのに全て水の泡だなんて」 「えっ?!それはどういう意味――」 ビリリ!と、紙が破ける音がリビングに響いた。 翔が受験票を破いている。 「うそっ?!やめてよ!!待って!!」 春季は大切な受験票の破れる音を聞いて気が動転してしまった。 翔のシャツを引っ張って、軽く背伸びをして翔の唇めがけて唇をつけた。 春季の初めてのキスだった。 すぐに唇をはなそうとすると、翔の掌がより強く唇が合わさるように春季の後頭部を押した。 1mmの隙間もなく、ぴったりと合わさるそれは、長いこと続いた。 「んっ」 ずっと息を止めていた春季は、とうとう息苦しくなって、逃げをうって口から息を吐いた。 「苦しかった?」 翔はやけに優しい声で話し掛ける。 細長く大きな指は、春季の頬を撫でている。 後頭部を押していた掌は、春季の腰を引き寄せて体を密着させていた。 「じ、受験票、返してよ・・」 頭の中がぼやけてはいたが、今しなくてはいけないことはなんとなくわかっていた。まず、受験票を取り戻し、試験会場に行く。これをしなくちゃならない。 「ああ。はい。がんばっておいで。冷静にね」 ☆ ☆ ☆ ☆ 机右上にある受験票はピンピンしている。 破れたりしていないということだ。 たぶん、翔は別の紙を破いていたということで・・・ 僕は、騙されたんだ――。 ひどい。春季は半泣きになる。 だからといっていまさらやり直しはきかない。 してしまったものはないものにできないからだ。 この唇が翔の唇を覚えているのだ。 大きく溜息をつく。 試験官が各自に試験用紙を配っていく。 春季の机にも問題用紙と解答用紙が配られて、いよいよ試験開始だ。 火照った頬を両手で抑えた春季は、見送りをしてくれた兄の言葉を思い出す。 「冷静に、冷静に行こう」 小さく言葉にして意志を固めると、試験開始を告げるチャイムが鳴った。 ★ ★ ★ ★ 「ただいまぁ」 帰宅が6時になってしまった。 受験帰りに、デパートで食材を買う受験生は、春季以外いないと思う。 春季はそんなことを思いながら、キッチンにいったん食材を置くと、精神的に疲労した体をソファに投げ出した。 勉強で寝不足気味の体はすぐにでも眠りに落ちそうだった。 だが、夕飯を作らなくてはならない。 弛緩した体を無理やり起こそうとしていると、翔が現れた。 「疲れてるだろ?横になってていいよ。今日は俺が作るから」 春季の眠たい頭が妙に冴えてきた。 そんなことを言うのはめずらしい。 それに、料理なんて生まれてこのかた作ったことないだろうし。 「大丈夫だよ。兄貴慣れてないのに、無理だよ」 そう言うと、翔は意地悪な顔つきで笑う。 「俺はやろうと思えば何でもできるから、安心して風呂でも入ってきたら?」 「え?お風呂もできてんの?!」 またもやシニカルな微笑が肯定の意味で春季に向けられた。 ☆ ☆ ☆ ☆ 風呂からあがると、いい匂いがして春季はキッチンに直行した。 「あーっ!シチューだ!」 大好物を前にしてはしゃぐ春季を見て、翔はにこやかに笑う。 濡れて水が滴る猫っ毛を優しく撫でて、味見用の小皿を春季に渡す。 「どう?」 小皿のシチューを舌で舐める様子に少し煽られながら聞く。 「すっごく美味しいよ!!兄貴料理できるんじゃん!」 勢いよく翔の顔を見た春季は頬を紅潮させて言った。 「サラダを完成させれば食べれるから、髪乾かしてきたら?」 春季のパジャマの隙間から見える鎖骨が、髪から滴る水滴で濡れていた。 風呂上りのシャンプーの香りとか、隣に立つだけでわかる高い体温。 きめ細かい白い肌のピンク色の頬や、艶々で赤くて柔らかい唇。 猫みたいな目をした可愛い性格の春季。 それらを持つ春季が隣にいるだけで、朝のキスを思い出し、そして理性が壊れそうになる。 両親が外国に消えてくれて助かったのか、助からなかったのか。 両親がいたころは、抑えがきいていたのかもしれない。 それなりに兄弟として生活してきた。 だが、去年の春以降は、家に二人きりで、二人きりの生活をしていく上で兄らしく健全に振舞うのに抑えがきかなくなってきていた。 春季が悲しんで泣いて帰って来たことがあった。 その時、翔は優しい言葉をあげて、抱きしめてやった。 しかし、母親のような父親のような母性や父性で春季を抱きしめてやったのかと問われると、答えかねるのが翔の状況であった。 俺は、兄として春季を好きなんじゃなく、男として春季に惚れている。 もうずっと前から確信していたことだ。 鳴り響いていたドライヤーの音が止まる。 ドライヤーの熱で頬を紅くした春季がリビング経由でキッチンにやってくる。 翔は理性を律して、春季に振り向く。 「さ、食べようか」 ★ ★ ★ ★ シチューを残らず食べほした春季は翔にご馳走様と言うと、食器を下げた。 「せめて皿洗いくらいは僕がするよ、兄貴は風呂でも入ってきたら?」 続いて翔もキッチンに食器を持ってくると、腕まくりをする春季を制した。 「これぐらいの量だから長く掛からない。今日は俺がするよ、ハルは歯を磨いて寝たらどう?」 これには春季も呆気にとられて、翔に肩を押されて洗面所に追いやられていた。 いつもの手順で歯磨きを始める。 やっぱり、気遣ってくれてる――? 朝、あんなことしたから、僕が試験に失敗したと思ってるのかな。 僕が帰ってきた途端にソファにうっつぶしてたから、そう見えたのかも。 気にしてるのかも・・・ いや、確かに疲労は朝のキスも含まれているけど。 ☆ ☆ ☆ ☆ ああでも言って遠ざけないと押し倒しかねない。 翔はなんであんなことをしてしまったのかと後悔していた。 キスさえしなければ、春季の柔らかい唇の感触を知る事はなかったのに。 知ってしまったら、あの感触を追いたくてたまらない。 はまってしまった。 「兄貴?」 春季がいつの間にかリビングにいて、驚いた。 「なんだ」 ふつうに接しようとするつもりが裏目に出て、なんとなくよそよそしい翔。 「あのさ、別に気にしないでいいよ?テスト結構うまくいったし、冷静に、できたからさ。それもひとえに兄貴が家庭教師してくれたおかげだし」 春季が何を言いたいのかわからない。 「気にしない?何を?」 すると、春季は顔を真っ赤にして、翔から目をそらす。 「朝の、・・」 朝のキスのことか。 翔はそれに気づいて、春季の言いたい事を理解した。 それにしても、もう我慢の限界だった。 「ハル、キス嫌いになった?」 ソファに座った翔が春季に隣に座るように手招きした。 素直に座った春季はうーんと唸って、言う。 「別に、キライじゃないけど、息苦しいよ、キスって」 春季は体育座りをして膝の上に顎を乗っけた姿勢で言った。 恥ずかしそうに目を細めている。 「キスは、気持ちいいものなんだよ。ハルは慣れてないからわからないかもしれないけどね」 翔は春季を挑発するように唇の端をつりあげた。 「兄貴っあのねぇ!僕ファーストキスだったんだよ!?知ってた?!」 春季はそう言ったとたんに翔に引っ張られて、翔の上に乗っかってしまった。 「知ってたよ」 仰向けになって寝転がる翔の上に春季を乗せて、優しい微笑で言う。 「あ、あ、兄貴・・ちょっと、なに?」 「ハル、キスを教えてあげるよ」 翔は春季の真っ赤になった頬を両手で挟んで、言った。 「んっ・・ん」 柔らかな唇にぴたりと合わせると、角度をかえて何度も合わせる。 「んぅ、っはぁ」 息が苦しいのか、春季は無防備に唇を開いた。 その隙間に濡れた舌を滑り込ませると、びくついた体を抱き寄せる。 「ぁ・・んんっ・・・やぁ」 背中がこそばゆくなる快感が、春季をおそった。 ぞくぞくと来る波に耐えられず、体を離そうとする。 翔の視線をずっと感じて、体が熱くなる。 どうしてこんなことされるの? なんで変な感じになるんだろう? 恥ずかしいよ、やめてよ。 おかしくなるよ――!! 「ハル」 真っ赤な頬をした泣き顔が、翔の声に反応して、翔を見る。 この反応が可愛すぎてたまらなくなる。 「兄貴、なんで、・・?」 なんでこんなことするの? 春季のなかで、兄という翔とは別に、男としての翔が生まれていた。 熱に浮かされたような体にさせるキスをする翔は、純粋に知らない男みたいで怖くなった。 「怖かったろ」 翔の怜悧な顔が少し悲しそうな表情で笑った。 そのとき、なぜか春季は頷けなかった。 「ごめんな」 春季のノーリアクションを無言の肯定と理解したのか、翔は謝ってきた。 「今日のことは忘れて、明日から元通りな」 翔は起き上がって春季をソファに座らせると、最後とでもいうように春季を抱きしめて、耳元で囁いた。 「えっ?」 春季はそう聞き返したが、翔は体を離して自室へ行ってしまった。 リビングに残された春季は、頭が真っ白で何も機能していなかった。 今日のことは忘れるって、どういうこと? 忘れてもいいの? 明日から元通りって、今日のはやっぱりふつうじゃないんだよね。 兄弟同士でキスするなんて、やっぱりおかしいもん。 キスは好き同士でするべきものだよ。 春季は自分の考えに納得して2、3回頷いた。 が。しかし、なぜ翔は春季にキスをしたのか、という疑問が発生する。 翔は弟である男にキスなんかして気持ち悪くなかったのだろうか? あまつさえ、舌まで入れて、快感を感じた弟を目の前にして。 春季にはなんのヒントが出されていないから、どうしてだか理解できない。 態度で表されるよりも、口で言われた方が何倍もわかりやすい。 というよりも、両方で攻めた方が、鈍い春季にはわかりやすかった。 でも、春季は、何もかも元通り、という言葉に、もの悲しさを感じていた。 ★ ★ ★ ★ バカな事をしてしまった。 後悔先にたたず――。 もうどうしようもない。 春季はすぐに忘れられるだろう。 忘れられないで苦しむのは、たぶん俺の方だ。 あまりにも愛しすぎた。 明日、いや、今日にでも両親に電話して、片方でもいいから帰ってきてもらおう。 そうしなければ、いつか、俺は春季を傷つけてしまう。 コンコン、とドアがノックされて、翔は体が強張るのを感じた。 頼むから入って来ないでくれ――。 そう願ったからといって、入って来るな、とは言えない。 なんの抵抗もなく、ドアが開けられ、春季が部屋に入ってくる。 翔は自室から出られるベランダに逃げた。 外は体を冷やしてくれる。 凍りつくような気温で、凶暴な本能を抑えてくれるから。 翔はベランダの柵にひじをついて、綺麗な夜空を見上げる。 「兄貴、寒くないの?」 寒そうに薄いパジャマ姿でベランダに近づいた春季を、翔は手をあげて制した。 来るなという合図だ。 春季はそれを見て部屋の中央で歩みを止める。 それっきり、翔は何のリアクションもなく、外を見つめたまま振り向かない。 「あのさ、・・・」 無言の境地に耐えかねた春季は、翔の背中に無視されるだろうと思いながら声をかける。 「やっぱり、おかしいよ・・・」 何もないことにするなんておかしいよ・・。 なんだか、明日から翔と春季が別人として暮らしていくような気がして。 「元通りになんて、なれないよ!!」 なんでこんなに寂しくなるんだろう? 「兄貴ぃ・・・」 もう語尾が誤魔化せないくらいに震えていた。 泣き声だ。 女々しいけど、もうなんでもいいや。 「兄貴っ!僕、元通りになんかなりたくない!よくわかんないけど、なりたくなんかないよっ!!」 春季は突っ立ったままで、カーペットにボロボロと涙を落として泣いた。 ベランダが軋む音がして、窓が閉じられる音がする。 先ほどから春季の体を掠めていた冷えた空気がぴたりと止んだ。 ゆっくりとカーペットの上を歩く音がしたが、春季は顔があげられなかった。 「兄貴、怒ってる・・?」 目の前に立たれて、威圧感がすごい。 でも逃げたくない。 よくわからないけど。 「ハル、よくわからないなら、わかるようにならないと、俺たちは元通りになるしかないんだよ。言ってる事、わからない?」 シニカルな微笑で見下ろす翔を見て、春季は足が竦んだ。 お願い、答えを教えて。 春季は体が勝手に動いたように感じた。 右手を翔の左胸に添えて、左手を右胸に添える。 翔は背が高いから、春季の頭は翔の鎖骨あたり。 頬を翔の体に寄せた。 カッターシャツの隙間から触れた翔の肌は冷たかった。 「ここまで答えを教えてしまうほど、俺は甘くないよ?」 「教えてよ。兄貴、兄貴が言ってくれないと、僕も言えない」 「言ってもいいのか」 「いいよ」 兄貴、僕、兄貴のことが好きだよ。 変だね、変だよな。 離れるって言われたら、あの唇が恋しくなった。 兄貴の優しい声や、抱きしめる腕がないと思ったら、寂しくなった。
「兄貴、僕、兄貴が好き」
だから。
兄貴も僕のことが好きだよね?
僕たちは、明日からも今日とおんなじだからね?
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