万聖節の夜物語 アルカディア魔法大学逃亡編(1-1)

第一章

 ここに一通の手紙がある。

『夜空へ。

 突然の便りで驚いたと思う。私は日ノ本で十五歳になった。
 夜空はどうしてる? みんな心配してる。
 四年前のあの約束を、覚えてるかはわからない。
 でも、あなたは新月刀とともに帰ってくるって誓った。
 私はずいぶん責められた。父の武功までさくら様にけなされた。
 悔しいのは分かってる、だけど……。
 お願いだから刀だけでも持って、この国に帰ってきて。
 ずっと好きだった。愛してた。
 この想いが冷めないうちに、早く。

順和二十四年四月一日
張本志弦』

 とある犯罪者の話をしよう。

1

 倚音交じりの八分の和音が乱打され、四分音符が二拍、力強くスキップする。スノビッシュで華麗な動機。無調性かと聞き違えるワルツのリズムは、グランドピアノをきしませてクリスタルラウンジを満たす。

 交易多層都市国家ロンシャンの誇る国立博物館の最上階は、分厚い特殊ガラスの壁が張られた三角錐型のラウンジだ。集まっているのはロンシャンでも随一の人間ばかりである。大統領、軍大佐、大学長、技術庁官。クリーム色のしたトーガに身を包んだ少年たちの一団も見える。奏でられているのは『大崩壊』以前に、近代 (モダン) のフランス人がコンペのために作曲した『高雅で感傷的なワルツ』第一曲。

 ロンシャン大統領ヨハネス・ヴォルフガング・ゴールドベルクが特等席に居座る。金髪緑眼の優雅な壮年で、鳥亜種のようだが両翼を断翼している。黒いスーツに身をつつんだその姿はさながら獣をすべて従える『ホモ・サピエンス』のごとくである。彼は難曲を弾きこなす少年を至極満足げな笑みで眺めていた。

 第一曲はト長調の響きに解決される。ピアニストはアジアンで、肩より少し長い黒髪は、艶やかだがハネ気味だ。漆黒の瞳には生き生きとした輝きがあったが、目を伏せると冷酷な印象もあった。六尺には満たない体躯は細身で、骨格にはまだ少年の危うさが残っている。

 ぴんと立った獣耳と躾よく垂れた尾は汚れひとつない白。ホモ・サピエンス壊滅後の新人類、ホモ・ファシウス狼亜種だ。獣種特性は渇水耐性、飢餓耐性、パワー因子発現というかつての戦闘用生物兵器である。出で立ちは意外なことに和風で、白い小袖の上に陣羽織を重ねている。その背には月輪の右を少しだけ膨らませた新月紋が輝かしく刺繍されている。首にはめられた紫色の重たい首輪こそが、少年がただの高級インテリアでないことを示していた。

 演奏は狂騒的に終わり、芝居がかった拍手がピアニストに寄せられた。少年は硬い表情で立ちあがって黙礼し、ヨハネス・ヴォルフガング・ゴールドベルク氏は満面の笑みで彼を抱擁する。少年は舞台から降り、トーガを着せられた同世代たちの列に戻っていった。

 やがて、彼らのもとにタキシードを着た金髪碧眼の少年がやってくる。鳥亜種で、兄とおぼしき軍服姿の青年が付き添っている。ゴールドベルク氏の息子たちだ。

 次男のセバスチャンは弾き手をまじまじと眺めて微笑した。

「これがピアノ順位全国三百番台の実力か。僕はロンシャンが誇らしいよ」

 弾き手の少年はゆっくりと最敬礼した。長男のミヒャエルが笑い交りに連絡をした。

「夜空。パーパが今夜どうかって言ってる。お前の姿に珍しく欲情しただと。傑作が完成したとことのほかご満悦だぞ」

 その命令に、夜空と呼ばれた少年は身体をぎしりとこわばらせる。セバスチャンのほうも複雑な表情になった。残りの同世代たちは無言で「応じろ」という圧をかけた。軍服姿の青年はニヤリと笑って妥協案を持ち出した。

「じゃあ今日もパトリックあたりを宛がっておくか。お前もこんな晴れの日に尻尾だの耳だので御気分を害したくはないだろう」

 夜空はうつむいて、少し赤くなる。

 やがて高位魔術師や大学の教授、軍の関係者などが夜空を品評し(大体がゴールドベルク氏の機嫌を考慮してか、激賞であった)、アルカディア魔法大学派遣の壮行会は終わりを告げた。

2

 夜空たち少年組はシャンパンもそこそこに、ロンシャンのダイヤモンド・ウィング、ゴールドベルク氏私邸内にあるローラースケート・パークでバスケットボールに興じていた。夕暮れの中、みなトーガを脱いでハーフパンツと半袖の身軽な装いである。中に一人、銀髪に赤目、兎耳も真っ白で、色素という色素が欠けたガラス細工のような少年がいた。兎亜種、獣種特性は聴覚特化である。アルビノは、彼がラボでの実験用生物であったオリジン直系であるという証左だ。ポール・ゲンズブール。仲間内では一番の年少の彼は、夜空からボールをパスされてついに立ち止まった。

「夜空、どうしてロンシャンの大学じゃあ駄目なの? 夜空がなりたいのはマジシャンじゃなくて、医者でしょう……? 僕ひとりじゃこれから不安だよ」
「反則! ポールは一体どうしたんだ?」

 敵陣だったアジアンの少年が駆け寄ってくる。ポールが同じ内容をもう一度訴えかけると、大人びた彼は凛々しい声で説教した。

「夜空の魔力値はこの国でもトップレベルだと言うんだから仕方ないだろう。それにロンシャンとアルカディアの国交はここ数年冷え込んでいる。魔術師総本山といえば聞こえがいいが、人間大砲を育てては各国に出荷して影響力を保っているただの小国さ。だが今のままじゃ寝覚めが悪いってのも正直なところだ」
「でもさ、月龍 (ユエルン) !」

 ポールが食ってかかると、夜空はその背にやんわりと手を置き、落ち着かせようとした。もう一人のメンバー、ふさふさした獣耳に豊かな尻尾を持った狐亜種の少年もコートの中心に集まってくる。彼は新田士貴にったしき と言い、テレパス能力に秀でていた。年下のポールを諭しつつ、自身も意見を述べる。

「ポール。月龍 (ユエルン) に文句を言ってもどうしようもないですよ。でも士貴も不思議なんです。軍での基礎トレはともかく、あんなラヴェルの難曲まで練習する必要あったんでしょうか? 行くのは魔術大学であって、音楽大学ではないはずでは……」

 疑念を聞いて、リーダー格の月龍ユエルン は長い尾をゆらりと弧にして薄く微笑んだ。馮月龍フェン・ユエルン 、大麗ダイリー で麻薬を売りさばく、黒社会の一家の御曹司である。切れ長の瞳で、女性的な妖しい美貌の猿亜種であった。

「仮にも日ノ本の王子の末裔を預かったんだ。ボスの威厳とロンシャンの強大さを見せつけるには、魔力も学力も、そして芸事も一流に成長させたって証明する必要があるんだよ」

 月龍ユエルン はさばさばと答え、夜空を激励した。

「それにしても……夜空に音楽以外の才能があったなんてな。我が家の赤光を魔術師たちに見せつけてやってくれ」

 夜空は月龍 (ユエルン) の言にうなずくと、ぐずるポールの肩を抱いた。

「分かったろ? これはボスの思し召しなんだよ。俺だってせっかく学力考査に受かったんだ、ストレートでロンシャンの大学に行って医学を学びたい。でも、ここじゃ俺はボスの駒だし、トレーニングには軍まで協力してもらった。魔術師になる気なんかないけど、祈月はそういう家でもある。なにより俺はロンシャンに、ゴールドベルク様に仕えてるんだよ。従うしかない」
「士貴はテレパス担当官として正式に軍に雇ってもらえました。この件も担当ですのでよろしくお願いしますよ、夜空」
「うん。士貴、俺の代わりにポールを守ってやってね」

 夜空は弱弱しく微笑んだ。士貴は銀狐の黒毛交りの尾をふくらませて不満げにした。

「でも士貴とてボスのものですし、実家なんて捨ててきましたから、夜空以上に何の抵抗もできませんよ。ポールはもともとロンシャン市民なのだし、ボスの愛人にされないだけマシと思って、ちゃんとした『首輪魔術師』としての一生を歩むべきです」

 当てが外れた答えに苛立ち、夜空は士貴に食ってかかった。

「ポールに汚いことを教えるなよ!」
「ピュアなままで、見え見えの甘言に乗るほうが心配ですよ。夜空すら十一の時にはもうここは『そういう世界』だってわかってたでしょう? どうしてボスからのお誘いに応じなかったんですか? 重要な密談かもしれなかったのに……!」

 夜空はラメパウダーを揉みこまれて光る白狼の獣耳を寝せ、ふてくされて黙った。見世物になっていた時はちらりとも動かさなかった尾を、不満げに振っている。

「ここはポールの今後よりセバスチャン様を心配するのがロンシャナーとしては正しいと思うがな」

 馮月龍 (フェン・ユエルン) はくつくつ笑う。夜空は口をとがらせる。

「セバスチャン様にはちゃんと君たちがついてるだろ。学校のことや私生活はまだしも、それ以上の政治的な件になんか心配したって関われないよ。王子の末裔って言ったって俺だって故郷なんか捨てたし、この留学が終わったらちゃんとロンシャンで医者になるの!」
「……そんな美談が許されればの話だが。見ろ、『小口のゴースト』と『泣きのエリス』のご登場だぞ」

 月龍 (ユエルン) は親指でコートの端を指した。灰狼亜種の男と犬亜種の女の見慣れた二人組が迎えにやってきていた。男は『ゴースト』と呼ばれていた。本名は誰も知らない。本人ですら覚えていないらしい。いつもより洒落たつもりか、茶褐色のスーツを着こんでいた。

 『ゴースト』はコートの線を踏んでずかずかと入り込んできた。

「こんなところで遊んでたのか。来年の魔法大学入試ツアーの客人たちが日本の魔法大学から転送石で到着したぞ。顔合わせとガイドが必要だ。士貴と共に来い」

 顎をしゃくった『ゴースト』の背後には『泣きのエリス』が立っていた。服装は飾り気がないリネンのドレスだ。犬亜種で垂れ耳、濃い色の金髪で、化粧は薄くして清楚ななりを装っている。彼女は既に泣いていた。

「夜空、久しぶり。立派になったわね……留守の間、あなたの財産はちゃんと管理する。旅支度は手伝うわ。遠くにいっても私たちとロンシャンのことを忘れないでね」

 女は大きな茶色い目に涙を溜めて、かがんでいる夜空を抱きしめた。夜空は慌ててその腕から逃れる。

「やめてくれよエリスさん! 俺はもう十七だし、抱きしめられてていい年ごろじゃない。それにあなたはもう人妻だしさ……」

 うぶな態度に、『ゴースト』は呆れた。

「今になっても『泣きのエリス』にひっかかるなんて、お前まだ童貞なのか?」

 夜空の代わりに士貴が勝手にサクサクと答える。

「ハイ。男も女もきれいさっぱりクリーンですよ」

 夜空は獣耳を立ち上げ、赤くなりながらブツブツ言う。

「そ、それは別に悪いことじゃないだろ……」

 『ゴースト』は噛み煙草を口に運び、蔑みの口調でたしなめた。

「文無しってわけでもなし、観賞用でも買って一晩で済ませりゃいいのに」
「そんなの最低の人間のすることだ!」

 夜空が不機嫌そうに言い切る。『泣きのエリス』は慈母のような笑みを浮かべながら眉を困らせた。

「凄いわね、十九まで綺麗でいられたなんて。私、昔はあなたは十五までもとてももたないと思ってた」
「ほらな。これがこの女の本性だ。いい加減、食われる側に甘んじてたら死んじまうって悟らないと何の役にも立たないぞ」

 『ゴースト』は噛み煙草を飲みこんでしまい、抑揚なく言った。

「護衛には首輪魔術師『サンド・シー』がつく。肝心のロンシャンが入試落ちじゃ戻ってきても命はないぞ」
「わかっています」

 夜空も無表情で応じた。

3

 夜空の祖国・日ノ本から特別な魔法石で瞬間転送されてきたのは、大麗 (ダイリー) という中華王朝がベースにある国から来た、アルカディア魔法大学への留学生であった。

 世界崩壊後の地殻変動でプレートが移動し、日ノ本という国は大陸と地続きになってしまったのである。国境の天山山脈を挟んで、砂漠の中心に交易多層都市国家・ロンシャンがある。大陸に広がる砂漠にキャラバンを巡回させ、各地にはシャドウウォーカーと呼ばれる末端を常駐させる、いわば世界流通陸路の元締めだ。大学も完備され、崩壊前の科学技術やその後の魔法技術の収集・管理にも注力している先進国家であった。市民には新人類としての選民意識が備わり、キャラバン隊やシャドウウォーカー以外の者が外国に出ることは珍しい。

 ともあれ、夜空は大麗朝廷の正式な国使である葉海英 (イェ・ハイィン) と彼の妹である葉貞苺 (イェ・チェンメイ) をダイアモンドウィング・ゴールドベルク私邸にて歓待し、キャラバン隊随一の首輪魔術師『サンド・シー』に守られて、ペルージアまで遥かに砂漠を旅することとなった。

 魔法動力で動く『サンド・カー』に荷物を押し込めたとはいえ、ラクダを駆っての砂漠越えは軍の訓練より数倍きつかった。太陽が拷問めいた痛みをともなってヒリヒリ肌を刺してくる。渇水耐性がこれほどありがたく思えた時はなかった。

 厳しい旅というものは、おのずから思索をも誘うらしい。夜空は重たい流砂を一歩一歩踏みしめながら、遠い歴史に思いをはせていた。

 核戦争後の混乱による『崩壊』の後、長い混乱の中で技術は失われていき、また元・戦闘兵器であった獣人、ホモ・ファシウスの台頭によって、人類種の交代があった。地球には新たに『魔素』が満ち、その影響が濃くなるにつれ、以前の物理法則がそのまま通用しなくなってしまった。そのために、人類が空を飛ぶことは難しくなっている。文明崩壊後の世界はいつしか『エレオス』とも称されるようになった。

 命がけの砂漠越えが叶うと、ペルージアに到着した。壮麗なモスクの周辺には市が広がり、旅人や商人がごった返す。雑然と広げられた絨毯の幾何学模様は単調な景色に慣れた目を楽しませてくれた。補給もそこそこに客船へと乗りこみ、魔法大学の建つアルカディア島へと向かう。

 葉兄妹にとっては、大麗ダイリー から天山陶春地方への旅程に続けて、砂漠越えと船旅も追加されるという、フルコースの大冒険だ。海英ハイィン は大麗人にありがちな我の強さがない、柔和な男だった。妹の貞苺チェンメイ は皮肉屋だが、シニヨンにまとめた黒髪は豊かで、こちらも後宮に上がる女官として、魔術を修めることに意欲大。大麗ダイリー 広しといえども世界横断を成し遂げた人物は少ない。鳥亜種に兎亜種、ふたりの若い兄妹は甲板に出でて天帝に拝礼し、興奮しきりであった。

 ――時は四月、雲雀が空を巡り麦肥える春。

 夜空たち一行は高級宿屋『海鳥亭』に居をさだめ、ロンシャンナショナルアカデミー魔法科の入試問題をもとに受験対策を行った。学院は年度代わりの長期休みに当たっており、島には入学希望者と卒業生が入れ替わり立ち代わりやってくる。民にとってもかき入れ時で、港は賑わいを見せていた。

 学科試験は滞りなく終わり、続けて実技試験が行われた。会場はアルカディア島の砂浜。衆目の中、現在身に着けている術を披露してのち、基本的な属性魔法を詠唱して、発動させて見せる。体内に流れる魔素絶対量と、それを外界のものと共鳴させて現象として発動させられるかどうかを計るテストである。

 受験生は実力者多数だった。部族に伝わる戦闘舞踊を披露する者、曲芸じみたイリュージョンを見せる者、はたまた炎を吐き、泣きくるっては亡魂を呼び寄せる者……中には、タロット占いをしてみせる妖しい輩までいる。

 今年は果たしてどんな珍しい魔術を見ることができるだろうか? メイジの顔ぶれに変化はあったろうか? 受験生には期待に満ちたまなざしが注がれた。アルカディア魔法大学の実技入試は島民にとっては恒例の見世物であった。失敗しようがどうだろうが、出番が済んだ受験生には一様にねぎらいの拍手が送られている。

 実技はファーストネームのイニシャル順で、葉兄妹はすでに試験を終えていた。

(通信開始、G・O・D、通信開始、G・O・D、アルカディアはいつも曇り。夜空の入試、実技を中継。)

 ヘクタグラムカース派のウィザードが出力する火、水、風・土の四属性魔力結界中央に、グレーの軍用作業服を着た十九の男が立っている。ブーツは黒皮の編み上げであった。ぴかぴかに磨き上げられてはいるが、底はずいぶんすり減っている。

 物見遊山の民やすでに実技を終えた受験生たちは互いに目配せしあった。というのも、受験生は左手に小型のトランクほどの大きさの竪琴を抱え込んでいたからだ。軍服と楽器。あまり見かけない取り合わせだった。くすくすと笑い声まで起きている。

 結界に向かい合って据えられた監督席の中央には、金糸の縫い取りのあるビリジアングリーンの立て襟マント――魔術師の最高位、アークメイジの証――に身を包んだアルカディア魔法大学学長、鳥亜種ダルス・”予言の”・アイヴィスの姿もあった。もっとも、太いワンドにほとんどもたれかかるような老いさらばえた姿ではあったが。彼がアルカディア島民の前に姿を現すのも、ほとんど一年ぶりである。その隣に着席した図書館長、猫亜種のフェルディナンド・シオン図書館長は目くばせして試験官を急かした。

「それでは始める。面接官は私、ヒョウガ・アイスバーグだ」
(こちら新田士貴。ノア少佐にテレパス実況。戦闘演習開始)

 ヒョウガ・アイスバーグは水元素を表す紺碧のマントに白の礼服を着たアイスウィザードであった。銀狐亜種、その渋い獣毛の色合いに似合った銀髪碧眼。怜悧な美貌の、いかにも気障ったらしい若手である。

 隣に控えていた犬亜種の壮年男性が問いかける。黒々と艶やかな犬耳を立てた、天山人の男だった。

「名前と年齢、そして国籍を」
「祈月夜空です。年齢は満十九歳、国籍は、ロンシャン」

 国名を聞いた瞬間、監督席には緊張が走った。残っている学生もまばらではあったが、中には密かに敵愾心を燃やした者もいた。最も瞳を悪事の色に染めたのは、巴里の少年手品師として名をはせているシリル・クーリール・ド・リュミエールその人だった。

 さまざまなウィザードが口々に聞く。夜空はささやきに似た柔らかい声色で答える。

「誕生日は? ゾディアックサインも」
「After Catastrophe 1291年5月30日、双子座です」
「使用可能な術は?」
「家の術と、マギカです」
「お母上のお名前は?」

 それはロンシャンの裏社会、とくに異邦人街出身者には非常に屈辱的な質問であったから(というのも、女が売春と無縁に生きるのは難しい社会であったので)、そこを一か月間放浪した夜空も表情を硬くした。質問者は、ロンシャンの罵倒語でいえば、『母の名つきで晒されろ』とそう言ったも同じだと、理解しているようないないような風情であった。

「母の名は草笛雫」

 夜空は沈鬱な顔で答えた。その佳人は故郷では評判だった。弟である「清矢」の方を可愛がるきらいはあったが、銀狐の獣耳と尾を持つ、ピアノが達者な女性であった。残念ながら夜空が十歳のときに儚くなってしまったが、彼女が生きていれば、全ての禍根はなかったであろう。

「では魔法実技に入る。家の術からだ!」
「祈月の術を、お見せしよう」

 夜空は宣言し、両目をつぶって深呼吸すると、竪琴を構えて弾き出した。明るくつま弾かれた、のびやかな風を彷彿させるメロディーに、呂の旋法でアルペジオが添えられる。遠き極東の典雅な楽。聞き入ったものの眼前には、うららかな陽光と春爛漫の花園が広がっていた。落花啼鳥、鄙びた山麓を背景にして、白狼種のたくましい農夫がたたずむ。

 彼はがっしりとした手で握り飯を差し伸べてきた。『昼飯にしよう』。穏やかな声には慈愛がこもっていた。

 いつの間にか、はじめの主題が還ってきて曲が終止する。農夫の笑顔をうすくれないの桜吹雪が覆い隠していく。夜空は、聴衆に故郷の幻影を見せたのだった。結界担当の風火の術師が、自身の担当する魔法元素との共鳴を秘かに感じ取る。

 観客たちから、拍手や口笛で賞賛が届けられた。中には興奮しきって友人に感想を語る民もいた。「俺たちは異郷に旅したんだ! そこで農夫の友人に出会った!」。夜空は視線で試験官に評を請う。ヒョウガ・アイスドバーグは無感動に次を要求した。

「ではマギカを」
「了解。Clearing to Fire! Spell Magica Est is bexime tanzing alta eiquto ratica deleta angle fasiotrn……」

 左右を見まわしてから唱えられた詠唱は、呪文ではなくマギカの魔術式だった。夜空は右手を振りかざし、全属性系が消去された純粋な魔力のみの圧を放って見せた。観衆には若干期待外れだ。何せ、マギカなど二年時の必修魔法に入るために、とことん見慣れていたから。先ほど母方について尋ねた佐野元晴教授だけが正確な魔術式詠唱に目を見張った。ヒョウガ・アイスドバーグが続けて問いかける。

「ほかに使用可能な術は?」
「はい、とある方から教えてもらった光線の術があります」
「それを」

 短く指示された夜空は右手を銃のかたちに握って、詠唱もなく人差し指から赤光を放った。アルカディア派遣のために、ロンシャンでの同胞、馮月龍フェン・ユエルン から教わった秘術である。

激光 (ジーグン) 、貫いて!」

 鉛筆ほどの太さの赤い光線が地面に数度跳ね返り、夜空の周囲を直線で多面体状に囲んだ。しばらく反射して蛇行したが、やがて推進力を失って火花のように消えていく。被害者を出さないよう、コントロールも行き届いていた。聴衆の中にいたシリル・クーリール・ド・リュミエールはその血の色に魅入られた。赤くスパークする妖しい光線を放つ、黒髪のすらりとしたアジアン。その光景は西欧諸国にとっての陰の魅力、オリエンタルの誘惑に満ちていた。

 光魔術の魔法陣に目がない彼の父が見たらよだれを垂らすだろう術式だ。ここアルカディア魔術大学で彼の父が求める力とは、すなわち強力な光学魔法。

 危うい赤光は、年かさの従姉に比べ手品の腕が劣っているとみなされていた純朴な少年に、無謀な夢を抱かせた。シリル・クーリール・ド・リュミエールは、他人の試験中にもかかわらず、操られたように人波をかき分け、結界の中まで歩み入った

「ねえキミ……ロンシャンから来たキミ!」

 夜空は闖入者に驚愕してざっと総毛だった。尾が二倍の太さにまで膨らむ。我を忘れてしまったシリルは無邪気に続けて言った。

「ボクにも今の魔法を教えてよ!」

 シリルは金髪を肩まで流し、蒼い瞳をした可愛らしい少年だった。愛玩用の犬亜種で、垂れた獣耳とぴんと立った尾は白い巻き毛で覆われている。夜空は肩を怒らせ防御姿勢を取った。シリル自身はその態度を見てはっと我に返った。結界外で葉兄妹とともに試験を見守っていた猫亜種の男……ロンシャンの首輪魔術師『サンド・シー』が思考の暇も与えずに唾を飛ばした。

「排除しろ! そいつは刺客に違いない!」

 他の魔法使いたちが制止する前に、夜空はじゃらん! と竪琴をかき鳴らして演奏を開始した。鋭い金属弦が硬い指の腹に食い込む。竪琴はわざとキルンベルガー第一法に調弦され、D音とA音が不協和のウルフに響く。

 とたんにシリルは衝撃に歯噛みして両目をかっと見開き、苦しみにえずいて膝からくずおれた。

「夜空! マギカだ!」
(ノア少佐より通達。自衛のため攻撃を許可する! 『サンド・シー』の命令通り、侵入者を排除せよ!)

 ロンシャン首輪魔術師、『サンド・シー』がすかさず叫ぶ。同時に、軟骨に装着されたピアスからも士貴によるテレパス通信があった。権力者からの絶対命令。夜空は竪琴を抱いて、右手を敵にかざして呪文名称を叫んだ。

「Magica!」

 開かれた掌底に五芒星を含んだ複雑な魔法陣が光って浮かび上がる。試験準備に抜かりはなかった。夜空の右手には、ロンシャン魔術師によってマギカの術式が埋め込まれていたのだ。短い呼称詠唱だけで外界との魔素反応が生じた。シリルの詠唱が終わるよりも速く、夜空の魔力が唸りを上げて殴りかかる。シリルは顎を正面から張られた形になった。頼りない少年の肢体は天を仰ぎ、なぎ倒される。

 ごとり、と頭を打った嫌な音。

(敵は沈黙、引き続き『サンド・シー』の指揮を待て!)

 結界を担当しているヘクタグラムカース家の魔術師たちはいったん魔力放出をやめ、試験監督たちもあまりの椿事に静まり返った。夜空は動かなくなったシリルをおびえて見つめた。そして、手招きする『サンド・シー』の下に庇護を求めて駆け寄ろうとした。

 ――だが、逃亡は許されなかった。強烈な黒紫の球雷が直線状に砂浜をえぐり、轟音とともに夜空の背中を貫いたのだ。放ったのはさきほど夜空に母の名を聞いた天山出身のダークウィザード、佐野元晴だ。紺紫の魔法石を備えた使い古しのロッドが燐光を集めている。甚大な魔素ダメージを併せ持つ放電に焼かれ、夜空は竪琴を抱いて砂まみれに吹っ飛ばされた。

「結界に闇、光属性を追加、出力はそれぞれ最大! 只今を以て実技試験は中止だ、残りの受験生はその場に坐って待機。私はグランドマスターを避暑館へお連れする!」

 図書館長シオンがその場を収める指示を出す。夜空は強度を増した結界に押しつぶされ、声を上げることもかなわずに浜に突っ伏した。もうひとり、金髪に緑の目をした少年が泣きそうな顔で駆けてくる。狂騒の中しっかと抱きしめられ、つぶやかれる少し不吉な詠唱を聞いた。彼の容姿は、ゴールドベルク氏たちに良く似ていた。

「聖なる力よ、生命の樹よ、全てをつくろう (めしい) となりて……我らの疲れを癒したまえ、奇跡よここに!」

 身体じゅうの血管が聖水ですすがれたかのような心地がする。体内をかけめぐる痛みと熱に翻弄されて、夜空は意識を断線させた。

(1-2につづく)