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 罪人は、それでも幸せを願う
 第1話



 PiPiPiPiPi......
 ……うるさい。
 布団の中から手探りして、アラームを切る。
 毎朝、これの繰り返しだ。
 寝呆けて足を突っ込んだスラックスは、前後ろ逆だった。
 成長を見越して大きめに買ってもらった制服は、いまだにピタリのサイズにならない。
 ブレザーを手に板張りの廊下に出ると、お手伝いのサチさんがいた。
「晴哉(はるや)さん、おはようございます」
「おはよー……」
「朝ごはん召し上がってください」
 持っていたネクタイをポケットに突っ込んで、リビングに入る。
 俺は、西村晴哉(にしむらはるや)。
 東京下町の由緒正しき老舗呉服屋「西村」の息子だ。
 ――と言っても、本当の子どもじゃない。8歳の時に連れて来られた。
 養護施設にいた俺を、西村の当主が引き取ってくれたんだ。
 日本家屋に似つかわしくない洋風のリビングは、空っぽだった。
「お兄さまは、先に済まされましたよ」
「そっか」
 ……今日も。いつものことだ。
 味噌汁から立ち上る湯気の香りが、寂しい。
 黙々と朝食を済ませて、洗面所の鏡の前に立つ。青いネクタイが、うまく結べなくてイライラした。見かねたように、サチさんが声をかけてくるけど、首を振る。ネクタイを結んでもらう17歳なんて恥ずかしい。
「……っ、あーもういいや」
 長さがバラバラのタイに焦れてカバンをひっつかむ。日本史の教科書がずしっと重い。
 飛び出た廊下の先をすらっとした人影が、涼しげに横切って行った。
「あ、あき――」
 俺が声をかける間もなく、廊下の向こうに消えてしまう。
 慌てて玄関に出た時には、玄関の戸が閉められた後だった。曇りガラスの向こうの背中が、ぼやけていく。
「……は〜……」
 今の人は、章宏(あきひろ)兄さん。
 義理の兄さんだ。
 俺たちは、あまり仲が良くない方……だと思う。気が合わないとかじゃなくて、兄さんが忙しすぎて、同じ家に住んでるのに滅多に会わない。俺が高校に上がって、兄さんが大学生になってからは、ますます。
 以前は、もう少し交流があったし、兄さんと話すのも好きだったんだけど。
 ……兄弟って、年をとる毎に離れていくものなんだろうか。
「そんなの寂しすぎるよな……」
 ぼやきながら歩いて駅前の大通りに出ると、横断歩道の赤信号で章宏兄さんが足止めをくっていた。
 なんとなく、声がかけづらい。少し距離をおいたところで信号を待つことにする。
 兄さんは、歩道の向こうを見たままだ。気づいてないのか……それとも、無視されてるのか。
 俺は、しょんぼりした気持ちになった。
 俺より3才年上の章宏兄さんは、白修院大学に通う大学3年生だ。
 小さい頃から毎日習いごとに通って、1度も遊んでいる姿を見たことがない。「老舗を継ぐ者として完璧を要求されてるんだ」――って、親戚の集まりで赤ら顔のおじさんが言ってた。茶道の稽古の後に一人で片付けしている兄さんの着物姿の背中を見ると、いつも切なくなる。その背中に、孤独と重圧を感じるんだ。
 兄さんが羽織った黒いシャツが、朝の風にはためいている。さらさらと風になびく黒髪は、兄さんの落ち着いた雰囲気に似合っていて大人っぽい。日本舞踊を踊ってるときの流し目なんかほんとに色っぽくて――言ってしまえば、自慢の兄さんだ。
 ……俺みたいなのをブラコンっていうらしいのは、中学の同級生に言われて知った。
 急に、兄さんが振り返った。目が合ってぎくっとする。
 目を逸らすのも……変だよな。迷ったけど、そろそろと近づく。
「き、今日、早いんだね。1限から?」
「ああ」
 ……そっけない。
 冷たいわけじゃないんだけど……軽くあしらわれてる感じ。
 信号が変わって、みんな一斉に歩道を渡り始める。俺は、半歩後ろで広い背中を見ながら歩いた。
 いくら態度はそっけなくても、兄さんが俺に歩調を合せてくれているのがわかって、くすぐったくて嬉しい。
 とにかくなにか兄さんと話したくて、ふと思い出したことを口にする。
「サチさんが、明日、松崎さんのとこに招ばれてるのをお忘れなくって言ってたよ」
 松崎さんは、『西村』と昔から付き合いのある旅館の大旦那だ。着物を新調する度に西村を使ってくれている。毎年、旅館に招いてくれて、しかも全部タダ。
「親父は仕事で行けないから、2人で招ばれてこいって言ってたぞ」
「へ!?」
 予想外の返答に、情けない声が出た。
 兄さんが、肩で小さくため息してる。
 そんな急な話……心の準備が間に合わない。
 だって、俺には秘密があるんだ。


 電車は、丁度出たところだった。次は、4分後。兄さんに促されてホームを歩く。
 さっきからずーっと頭の中が騒がしい。
 2人で。2人っきり……兄さんと……。
「晴哉」
「え!?」
 名前を呼ばれるなんて久しぶりで、思いっきり驚いてしまった。
「ひどいな、それ」
 兄さんが、くいと自分の襟を引っ張って見せたので、何が言いたいのかわかった。
 ネクタイの結び目がひどいことは、自分でも気がついてる。
「いまいちコツが……」
 俺が渋々言い訳すると、兄さんは、呆れたようにため息して俺のネクタイに手を伸ばす。その人差し指が、くっと結び目を引いた。
「……どんな結び方してんだ、固てえ」
「う――」
 その指が、ぐちゃぐちゃに結ばれていたネクタイを器用に解いていく。
「……ほら、よく見て覚えろ」
 囁いた低い声が降ってきて、心臓が跳ねる。
(うわ……近い……)
 たぶん、俺、耳が赤くなってる。
 朝の喧騒に包まれて、向かいのホームに電車が入ってくる。
 ネクタイに視線を落とす、兄さんの顔。朝陽に透ける髪。伏せられた長いまつげ――きれいだ。ここぞとばかりに遠慮なく見てたら、視線が捕まった。
 その濡れてるみたいに黒くて強い目に、びりっと体が震えてしまって慌てて俯いた。
 長いきれいな指が、俺の淡い青のネクタイを器用に結ぶのを見つめて気を逸らす。
 胸が、どっくんどっくんいい出してる。
 どこ見ても兄さん、だ。目のやり場に困る。
 兄さんの呼吸で前髪が微かに揺れてるのを感じてたら、体温が上がってきた。
 ……逃げ出したい。
 居ても立ってもいられなくなったところで、兄さんの指が止まる。
「電車」
 行けよ、と肩を軽く押されて、電光板を見上げたのと同時に電車が入ってきた。
「あ、ありがと」
 兄さんは俺の小さな声に目を細めて、自分の乗る電車側に歩いて行く。
 その背中が見えなくなってから、ネクタイを摘み上げた。
 きっちりと、美しい結び目。
 耳が熱い。人ごみの熱気のせいじゃない。
 入ってきた電車に乗り込む。足が、雲を蹴ってるみたいだ。
 階段から離れたところに乗ったから、車内は空いていた。体をドアに預けて肺の底の底から息を吐き出す。……さっきは、緊張でうまく呼吸できなかったから。
 相変わらず会話らしい会話はできなかったけど、胸がいっぱいだ。
 誰にも言えない。ずっとこの胸に、隠してきたこと。それは。
 章宏兄さんのことが、好きってこと。
 これは、親愛の情とか、そういうことじゃなくて。
 兄さんを想っただけど胸が締めつけられてしまうような、特別な「好き」だ。
 昔は、普通に女の子を好きになった。バレンタインデーだってワクワクしてた。
 ただ、好きな子に対する気持ちはいつでも、兄さんへの気持ちと比べると霞んでしまってたように思う。
 中学の卒業式の日に女の子から告白された時だって、頭に浮かんだのはなぜか兄さんの顔で……気がついたら断っていた。
 高校に上がる頃には、兄さんと一言話せただけでその日一日中舞い上がってしまう自分をおかしいと思うようになった。うまく話せなかった時には、地の底まで落ち込んだ。
 毎日の一喜一憂を晴らしに、友達とカラオケに行った時。
『西村、好きな子できた?』
『……へ?』
『そのため息。悩ましげー』
 からかい半分の言葉は、頭を殴られたように衝撃的で。俺の胸の中はぐるぐるしはじめた。
 兄さんが遠くを見ている時。さっきみたいに近くにいる時。
 触りたいって、思う瞬間がある。
 手に触れてみたら、どんな風なのかな、とか。
 ……キスしたら、どんな感じなのかな、とか。
 それって……もしかして、恋っていうんじゃないだろうか。
 憧れとの境界線は曖昧だけれど、好きなのかもしれないと思ったら少し気が楽になったのも確かだ。
 ……好きでいることに、罪はないし。
 相手の気持ちを欲しがらなければ、想うだけなら、自由のはずだ。
 いつか、違う人を好きになれればいい。その日が来るのを静かに待っていればいいんだから――そう言い聞かせて、俺は、この罪に目をつぶっている。





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