薄っぺらな愛でさえ



 妙なことになった。痛む頬を抑えながら茅野は考え込む。ついでに後頭部と尻も痛かった。
 昨晩は、旧友である冴島の店で飲んでいた。冴島は小学校以来の友人で、数少ない茅野の事情知る一人だ。だから冴島の店にかかる曲がどれだけ茅野の趣味と合わなかろうが、置いてる酒がいまいちだろうとも、無くてはならない行きつけの店だった。
 お決まりのカウンター席に座って、冴島と話しながら酒を飲む。いつも光景だ。話の内容のほとんどは冴島のどうでもいいような中身のない話で、あまりにもどうでもよくて内容を覚えていない。覚えていなくても次の時にはまた同じ話をしてくるだろう。
 事の始まりは、冴島のよく動く口を眺めていた時だった。背後の騒がしさが気になり、振り向くと近くの席で小競り合いが始まっていたのだ。否、酔った男が一方的に隣の席の男へしつこく絡んでいた。まずいな。直観的に感じる。絡まれている男は無言で相手の男を見上げていたが、その眼差しは笑っていなかった。冷めている。
 茅野が立ち上がり二人の間へ割って入るのと、絡まれていた男が立ち上がるのはほぼ同時だった。強い衝撃が茅野の頬を襲う。一発で黙らせようという意志のある拳だった。殴られた瞬間は痛みで意識が朦朧としており、定かではない。どうやら後ろに倒れて尻もちをつき、ついでに後頭部をテーブルの角にぶつけたようだ。あまりの痛みに頭を抱えて悶え苦しんでいると冴島が冷たいおしぼりを差し出してきたが、受け取れたかどうかは覚えていなかった。おぼろげな意識の中、引きずられるようにしてタクシーに乗りこんだような気がする。その後は目が覚めた、今だった。
 見覚えのないダブルベッド。マンションらしき部屋の一室。少なくとも安普請ではないことは分かる。部屋は静かで物音一つしなかった。人の気配もなく、茅野一人のようである。ベッド脇の時計は午前十時三十二分。昨日が金曜の夜だから、おそらく今は土曜の朝だろう。会社が休みで本当に良かった。この年になって飲み屋でトラぶって無断欠勤なんてことは避けたい。今の会社で波風なく過ごして定年退職するのが茅野のささやかかつ切実な夢だった。
 体を起こし、そろそろと部屋を出る。続くのは広々としたリビングとダイニング。自身の安アパートと比べて一旦家賃はいくらなんだろうかと考える。一カ月の家賃で、給料まるまる吹っ飛ぶかもしれない。そもそも何故こんなところにいるのだろうか。部屋の主の痕跡を探してうろつくが、個人情報が特定出来そうなものがなかった。とりあえずテレビが大きい。茅野はガラステーブルに置かれたリモコンで電源を入れる。見慣れたキャスターが行楽地の天気を伝えていた。チャンネルを替えてると、バラエティー番組の再放送が流れ出す。ゲストの中に年若いアイドルが肩身狭そうに座っていた。茅野はここが他人の家だということも忘れて画面に食いつく。録画してない放映分だ。お飾り程度に呼ばれた少年は、さしてカメラに映るわけでもない。それでも笑顔を崩さず、隣の人のコメントに相槌を打っていた。
 チャッと高い金属音と共にドアの開く気配がする。茅野は驚きで小さく肩を震わせた。慌ててテレビを消そうとリモコンに手を伸ばすが、掴む前に弾いてテーブルの下へ転がってしまった。部屋の住人らしき男の影が現れ、ダイニングからその先にいる茅野に視線を向けている。威圧的な雰囲気の背の高い男だ。年頃は茅野と同じぐらい。第一印象は、住む世界が違う、だった。多分、普通に暮らしていれば関わりあうことのない人物だろう。稼業的な意味合いで。
「アンタ、起きて大丈夫なのか」
 低くて良い声だなと思う。男性的だ。後二十年若かったら申し分ない。
「え、えぇ、はい。多分」
 まだ鏡で見ていないが、恐らく頬は腫れているか青痣になっているだろう。後頭部にはたんこぶ、尻にも恐らく青痣がある。けれども生きていけないほどではない。
「気分が悪いとか、そういったことはねぇか」
「ないですね。たんこぶが出来ているぐらいです」
 頭を打って吐き気がしたらすぐに病院へ行けと言われるが、痛みはあるものの、そういった気分不良の類はなかった。頬は冷やしておけばそのうち治るだろう。治るまで、少々顔が不格好というだけだ。
「そうか、ならいい。俺は高塚。あんたのことは冴島から聞いている。殴ったことは悪かったな。だが、今あんたに警察へ駆け込まれると厄介なんだよ。怪我が治るまでここにいてもらおうと思ってな」
 はぁと気の抜けた返事を返す。話がよく呑み込めなかった。
「別に、駆け込みませんけど」
「口はいくらでもそう言えるだろ。会社に行くなとまでは言わねぇよ。そこまでの足はこっちでなんとかするし、必要なものがあったら用意する。女を抱きたくなったら、極力ここには連れ込まねぇから安心しろ。以上」
 言いたいことを言い終わったのか、高塚はスーツの上着をソファに置いて冷蔵庫へ向かった。高そうなスーツが皺になりそうだ。
「これ、掛けておいても構わないですか」
 高塚が怪訝な顔をする。顔の彫りが深いせいか、眉間に皺を寄せると迫力があった。
「掛けるって何を」
「上着をハンガーに」
 茅野の言葉に高塚は一瞬目を丸くしたが、すぐに平静な顔で寝室を指差す。
「かまわねぇよ、ハンガーは寝室にあるクローゼットん中だ」
「どうも」
 茅野は上着を持ってクローゼットへ向かう。ビールを片手に革張りのソファに座った高塚が、茅野が見ていたバラエティーへ目を向けている。真昼間からアルコールを摂るなんて、優雅な身分だ。クローゼットを開けて、邪魔にならないだろう所へスーツを吊るしておく。
 さて、この後はどうするべきか。とりあえず、頬を冷やす物が欲しかった。


 

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