■ Bad Love 1


 深見光彦が自分の性的指向――つまりゲイであること――に気がついたのは高校一年の夏、あと一週間もすれば夏休みが始まる、という梅雨の晴れ間の蒸し暑い日の放課後であった。

 深見は一学年上の先輩にひと気のない体育館の裏側に呼び出されていた。その先輩が同じ社研部の人間だという事は知っている。だが、社研部というのはたまに顔を出してもただ集まって雑談をして帰るだけの、ほとんど活動のない部だ。その先輩も一度か二度話をしたことがあるかもしれないな、程度の面識しかない。
 だから、突然の呼び出しも全く身に覚えがなく「何か恨みを買うようなことをしたっけ?」「気に障るようなことしたっけ?」「いきなり殴られたらイヤだな」、と若干おどおどしながらその場所に向かった。
 しかし、そこで待ち受けていた先輩は深見に思っても見なかった一撃をくらわせた。と言っても実際は言葉を発しただけで危害を加えられたわけではないのだが、深見にとってそれは頭をがーんと鈍器で殴られたような衝撃だった。
「深見のことが好きなんだ。よかったら俺と付き合ってくれないかな」
 大柄な先輩は照れたように後頭部を掻き、伏目がちながらもはっきりとこう告げた。
 深見の通っている高校は男女共学だがこの先輩はもちろん男で、そして深見も間違いなく男だ。
(男が男に愛の告白? しかもこんなすんなりとあっけらかんと!?)
「先輩、俺、男なんですけど……」
 あまりの衝撃に頭真っ白な深見に、先輩は追い討ちをかける。
「あれ? 深見ってゲイだよな……?」
 ゲイっていうのはホモってことなわけで、男同士でエロいこととかしちゃうアレなわけで。
 テレビでよく観るオカマの芸人がかしましく脳内を駆け巡り、深見は軽いパニックに陥った。
「な、な、なん、で俺が……」
「いや、同類ってなんとなく雰囲気でわかるし……もしかして違った?」
 たしかに、深見はそれまで女性に興味を持ったことはなかった。
 小学生の頃は男の子同士で集まると「クラスの女子の中で誰が好きか」なんて話をしたものだが、深見は今ひとつピンと来るものがなかった。話をあわせて一番人気のクラス一かわいい子の名を挙げたりしたが、実際はスポーツ万能で活発でクラスの中心的な存在の男の子が一番気になっていたし、中学に入ってからは、大学卒業したての明るくて人懐っこくて誰からも兄のように慕われていた理科の教師にいつもくっついてまわったりした。
 だが、それらの感情に「好き」という言葉を用いることは胸の内ですら一切なかった。自分自身を傷つけまいとする自衛本能で、感情に蓋をしてしまっていたのかもしれない。
 ゲイだとかホモだとか自分とは全く別の世界の話だと、そんなものは遠い世界の話で自分とは無関係なんだと思っていた。
 それなのに、目の前にいる男はやすやすとその高い壁を壊し、向こう側の世界を深見に見せた。あまつさえ、手を差し伸べて深見をそちら側へいざなおうとしているのだ。
 自分と同じように同性である男を好きになる人間がいて、自分も男を好きになっていいんだと許された気がして、深見はぱぁぁっと道が拓けていくのを感じた。
 あんまり長い時間呆然と立ち尽くしている深見に、先輩はそれを否の返事と受け取ったのか、「あの、ごめんな? 急にこんなこと言って……無理なら断ってくれていいから」と、バツが悪そうにそそくさと踵を返そうとした。
「ま、待ってください! 付き合います! いえ、付き合わせてください!」
 深見は先輩の肘にがしっと取りすがり熱いまなざしでそう訴えた。
 先輩が自分を暗い闇の底から救い出してくれたヒーローのような気がして、急に愛しく思えてきたのだ。

 その後、晴れてその先輩とは恋人として付き合うことになった。もちろん、周囲には秘密の関係だったが、先輩は深見を壊れ物でも扱うように大切に扱ってくれたし、いろんな所に出かけていったり、クリスマスやバレンタインといったイベントを一緒に過ごしたり、抱かれることの悦びを教えてくれたりもした。
 だけど。
「いつか本気で俺のこと見てくれるかも知れないと思ってたけど、やっぱ堪えられそうもない。ごめんな」
 先輩は東京の大学に入り一人暮らしを始める時、そう言って深見の元を去っていった。
 深見にとってそれは青天の霹靂だった。先輩とはうまくやっている自信があったし、二人の関係に満足していた。東京の大学を受験すると最初に聞かされた時も、遠距離恋愛になるけどそれでもなんとかやっていけるだろうと思っていた。受験勉強に忙しい先輩を励ましたり、時には邪魔をしないようにと一人ぼっちで過ごす時間を堪えたりもしていた。
 自分としては本気で先輩と付き合っていたつもりなのに、何が足りなかったというのだろう?
 答えを見つけられないまま何日かは傷心でへこんだが、先輩との思い出に浸ろうと、初めて連れて行ってもらったゲイバーに顔を出して、ちょっかいをかけてくる男たちに失恋を慰めてもらっているうちになんだかあっさりと吹っ切れてしまっていた。
 俺って意外と淡白な性格なのかも、なんて思った深見はさらに、自分の容姿が男を惹きつけるということにもこの時気づいた。
 くりくりと大きく、黒目がちな瞳。フランス人形のように小さく可憐な鼻。唇はぷっくりと肉感的で口角がきゅっと上がっている。透き通るような薄桃色の頬。亜麻色がかった少し長めの髪は絹糸のようにふわふわと額で揺れる。華奢な身体。誰からも愛されるかわいらしい容貌。上目遣いではにかんだようににこりと微笑めば、大抵の男は自分に優しくしてくれるということを本能的に学習した。

 その後、地元の観光専門学校に通うようになる頃には自分をちやほやともて囃す男たちのあしらいにも随分と慣れて、たまにイイナと思う男から声掛けられたらついていくなんて遊びもするようになっていた。
 しかし、深見はこの時点でも全く気付いていなかったのだ。自分が本当の恋をしていないということに。与えられるままの愛情やぬくもりにくるまって、自分から愛すという能動的な感情を殺して過ごしてしまった。その事に気づこうともしなかった。そうしていれば、心も体も寂しくなることはなかったから、仕方のない事だったのかもしれない。

 深見は専門学校を卒業すると、地元ではそこそこ名の知れたシティホテルに就職した。憧れていたフロントではなくレストランに配属された時には少しぶすくれたものの、まぁそのうちどうにかなるだろう、と楽観的に考えていた。
 そこで係長の可知から、教育係として引き合わされたのが山崎という男だった。
「山崎君。こちら、新入社員の深見ちゃん。これから一ヶ月間いろいろ教えてあげてね」
 そう声を掛けられ振り向いた男は、いかにも洗練された大人の男といったいでたちだった。涼やかな目許、すっきりと形の整った目鼻立ち、整髪料できれいに櫛目がつけられつやつやとした黒髪。ウェイターのユニフォームである臙脂色のタキシードをまるで誂えたもののように見事に着こなしている。深見がイイナと思う男のタイプは優しい感じのいつもにこにこと微笑んでいるような快活な男で、目の前に立っている男とはだいぶ違うのだが、それでもかっこいいなぁと好感をもった。
「今日からこちらに配属されました、深見光彦です。よろしくお願いします」
 ぴょこんと頭を下げて挨拶をした深見が顔をあげると、山崎はそれをちらりと一瞥した後、「来て」と言ったきりすたすたと歩き出してしまった。何が起こったのかわからず、深見はぽかんとする。
「んじゃ、深見ちゃん、頑張ってね。山崎君、よろしく頼むよー」
 可知もまた、手をひらひらさせながら山崎とは反対方向へと去っていったので、深見は慌てて山崎の後を追った。
 連れて行かれたのはレストランのホールではなく調理場。スチール製の大きくてごつい扉を開けると一気に騒音が溢れ出した。
 白いコックコートを着た男たちやパートのおばちゃんたちが、戦場のように騒がしい空間をせわしなく動き回っていた。
「おばちゃん、ヘルプ連れてきたよ」
 山崎は扉からすぐのところにあるぴかぴかに磨かれたステンレスのカウンター越しに、重たそうなラックをよっこいせと持ち上げている六十過ぎと思われる女性に声をかけた。
「あらぁ、山崎さん。悪いわねぇ。急に田中さんが孫の面倒みなくちゃいけないって休みとられたもんだから、私一人で頑張ってたんだけど、ちょっと捌ききれなくて……」
「いいよ、気にしなくて」
 山崎はそこに何台か並んでいるステンレスの機械のカバーをぐいっと上に持ち上げると、ゴブレットがぎっしりと収納されたラックをそこにセットした。
「あんた、新人さん? いきなりコキ使っちゃってごめんね」
「あ、いえ、はい」
 深見は訳がわからないまま愛想笑いで返事をする。
「それで、ここのスイッチを押す」
 何の前置きもなく山崎はそう言うと機械のスイッチを操作した。すると、ザザザという大量の水が流れ出す騒音と共に機械がごごごと唸りをあげた。どうやら大型の食洗機のようだ。
「あとは、ブザーが鳴ったら取り出して、そっちのワゴンに入れる。これとこっちの機械使っていいから。あぁ、あとゴミなんかが入っていたら取り除いてからセットするように」
 どんどん機械の説明をされているうちに、深見の中に嫌な予感が広がる。
「あの……、俺がそれやるんですか?」
 深見は怪訝な顔をして山崎に尋ねた。深見はレストランに配属されたのであって、調理場の担当ではない。当然の疑問だろう。
「いやならいいよ」
 山崎は感情のこもらない目を深見に一瞬だけ向け、また食器が詰まったラックを食洗機にセットしはじめた。
 しばしどうしたらいいかわからず呆然としたが、すぐにこれではマズいと気付き山崎が持ち上げたラックに自らも手をかけた。
「す、すみません! 俺がやります!」
 いくら深見といえど、自分がこの場では一番下っ端の新入社員なのだから言いつけられたことは文句言わずにこなしていくべきだ、とわかっている。普段、ゲイバーでのわがまま放題の小悪魔っぷりを知っている男たちが見たら驚いて腰を抜かしそうな光景なのだが。
 山崎は何も言わずラックを深見に渡すとそのまま調理場から出て行ってしまった。
 おばちゃんには申し訳なさそうに何度も謝られたが、その度に「俺、一番下っ端だし、全然いいよ」とにっこりと笑ってやった。
 その実、心の奥では深見は怒りをふつふつとさせながら作業をこなしていた。
 配属されて一日目。真新しいタキシードに身を包み、レストランのホールで華々しく給仕する自分を思い描いていたというのに。

 なんなんだ!
 なんで俺が熱気と騒音だらけの調理場でおばちゃんのヘルプで食器洗ってないといけないんだよ!
 それに何、アイツのあの態度!
 なんなの、「いやならいいよ」って! すっごい嫌味っぽいし!

 片付けても片付けても、次々と押し寄せる洗い物と格闘すること数時間。おばちゃんに「一段落ついたからもう戻ったら」と言われ、やっとレストランのパントリーに戻った。
 すると、早速山崎に見つかり鋭い目で睨まれた。
「何? 調理場は?」
 咎めるような口調で聞かれ、先ほどの怒りがまたぶり返す。
「一段落したからもう戻っていいと言われました」
 つい、憮然として答えてしまった。そんな深見の態度にも山崎は何も言わず、カウンター下の扉をあけるとゴブレットが整然と並んだ見覚えのあるトレーを取り出した。そして、また食器洗いをさせられるのか、と怯む深見にクリーニング済みのナプキンを一枚、手渡した。
「フットをこう掴んで、こっちの端で磨く」
 山崎は縦長に折りたたんだナプキンの端で逆さまに並べられているゴブレットの底を掴むとトレーから取り出し、反対側の端でカップの部分を捻るようにきゅきゅっと器用に磨いた。
 またしても前置きなしに何やら手順の説明が始まってしまったが、今度は深見も大人しくみようみまねでゴブレットを掴み上げた。なんとか同じように磨こうとするが、見た目ほど簡単でなくもたもたしてしまう。
「ステムを軸にして両側で円を描くように」
 山崎はそう言うとトレーから再びゴブレットを掴み取り、もう一度手本をみせてくれた。
「終わったら、指紋がつかないようにこっちに置く」
 ナプキンでフット部分を掴んだままの状態で、空いたトレーにそれを収めると足早にホールへと戻っていった。
 俺は雑用係じゃないんだけど、と思いながらも渋々作業に取り掛かる。あまり力を込めると繊細なガラスは割れてしまいそうで、慎重に丁寧にゴブレットを美しく磨き上げることに没頭していた。
 だいぶ慣れてリズミカルに磨けるようになった頃、可知に「あれ、深見ちゃんまだいたの? もう上がっていいよー」なんて言われて、初めてはっと我に返った。時計を見上げると、定時の午後五時をとっくに過ぎている。
「でも、まだこれ全部終わってなくて……」
 少し困ったように眉尻を下げて上目使いに見上げると、可知は途端にでれっと相好を崩した。この可知の表情こそが、深見に対する男達の正常な反応なのだが、今はそんなことを気にする場面ではない。
「あー、いいよ。別に急ぐもんでもないし。適当なところで切りあげれば」
 深見は可知の言葉に、がっくりと肩を落とした。急いでいると思ったからこそ、必要だと思ったからこそ、料理の皿を何枚も手に持ち颯爽と歩く先輩ウェイターたちを尻目に、自分なりにがんばっていたのに。なんだか急に惨めな気持ちになってきた。
 結局、初日は営業中のレストランの華やかなホールの様子を一目も見られないまま、裏方の仕事だけで終わってしまった。くたくたに疲れて、しょんぼりとパントリーを出ようとすると山崎が通りかかった。今度こそという思いをこめて、極上の微笑みを浮かべながら「お先に失礼します」と声をかけてやった。だが、ちらりと一瞥して「おつかれ」と素っ気なく言うだけで去っていく山崎に、また深見の自尊心はずたずたにされてしまった。

 マジでサイッテー!
 俺が声掛けてるのに、にこりともしないでさ!!

 山崎に対する深見の評価が、初日にして一気に最低ランクに下がったのは言うまでもない。
 それからは徐々に客が帰ったあとの食器の片付けや、テーブルセッティング、水の給仕、とホールにも出させてもらえるようになったが、深見の中での山崎の評価が再浮上することはなかった。
 それでも深見は、山崎をずっと見続けていた。正確に言うと山崎が何を見ているかを見ていた。
 山崎の視線の先をいつも見て、その状況を汲み取り、山崎が一歩を踏み出す前に飛び出していって皿を下げたり、追加オーダーをとったりすることに躍起になっていた。山崎にだけは使えない奴だと思われたくなかった。自分を出来の悪い奴のように扱う山崎を見返してやりたかった。
 一ヶ月間の研修期間を過ぎたあともそれは続いた。
 そうやってずっと見ていて気づいた点もある。細かなところにまで気配りが行き届いた完璧な仕事。一切の妥協を許さない真摯な態度。お客様に話しかけられれば、普段の無愛想が嘘みたいに、涼やかな目を少し細めてまるで花が綻ぶように見事な笑みを浮かべる。
 それが営業用だとわかっていても、自分にもああいう笑顔を向けてくれたっていいのに、と深見は苛立ちを覚えるのだった。