きみをよぶ
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スグリの姉の婚礼の儀は今日の晩だ。だからすこし足を伸ばして、かれは集落のそとにある山あいに花冠につかう花を摘みにきている。普段は危険だからと近寄らないようにしているけれど今日は特別だった。なんといっても、スグリの姉は酋長の息子に嫁ぐのだ。

「…このくらいでいいかな」

籠一杯に色とりどりの花を摘んで、スグリは満足をしてひとつ息を吐いた。この山にほど近い森で古くから暮らすスグリたちの部族は手先が器用で、花や蔦でひととおりのものは作ってしまえる。花冠など男のスグリでもお手の物だった。母のいないスグリの家族では、子供たちがそれぞれ役割を分担して生活をしてきたからというのもあるが、スグリはムラのなかでも一、二を争うほどに蔦で籠を編むのが上手かった。

スグリのひとつ上の姉は今宵、月が真上に昇ったらスグリたちの集落の長の二番目の息子の妻となる。酋長の血族に連なれば狩りで手に入れた毛皮も優先的に回してもらえるし、食糧だって手に入りやすくなるから、願ってもない婚姻だった。あまり身分に拘らないスグリたちの部族では、子供のうちは狩人の息子も手先のこまかい仕事をする家の息子も酋長の息子もいっしょになって遊ぶ。そんなこともあって、スグリも姉ともども酋長の次男とは旧知の仲だ。

鹿を射るのがとても上手い、背の高い青年である。名をクサギといって、娘をクサギの嫁にやりたいと思う人間はムラに何人もいた。そんなかれの妻に姉がなるのだから、スグリはとてもうれしい。うれしいから、とびきりきれいな花冠をこしらえてやろうと、この場所へと来たわけである。

山に入るのは、普段なら狩人たちだけだ。スグリたち小間使いの人間はひとりで足を運んだりはしない。ここにはたくさんの動物たちがいるだけでなく、違うムラがあるからだ。

ムラ同士には縄張りがある。それを迂闊に冒しては、小競り合いになってもやむなしになってしまうのだ。そしてこの山に住むのはひどく狩りが上手く、力のある集落なのである。スグリたちの部族も、かれらに攻め込まれればたちどころに負けてしまうことだろう。

「もう帰ろう」

誰にいうでもなく宣言して、スグリはこのうつくしい花に満ちた草原から帰ることにした。姉やきょうだいが心配しているに違いない。もともとスグリは身体が強い方ではなかった。年頃の男なのに嫁も貰わず狩りにも行かぬのは、すこし無理をすると数日寝込んでしまうような脆弱な身体の持ち主だからである。

クサギは明日には義理の弟になるスグリにもとてもよくしてくれる。小さい頃はよく寝込みがちなスグリの枕元で狩りの話を聞かせてくれたものだった。そんなやさしい男のもとへ姉が嫁ぐのが、スグリはうれしいし誇らしい。

一つ上の姉とスグリは、今、父親と三人の妹たちで暮らしている。ほかのきょうだいがみんな家を出ていったので、家ではスグリと姉が采配をふるっていた。そんな親しい姉が家を出れば、あとは十を出たばかりの妹と、母の忘れ形見の双子と父親の四人暮らしになる。

妹たちは、きっと姉が居なくなることをさびしがるだろう。そう思えばますますムラへと戻る足は早くなった。今日は妹たちを宥めて眠らせてやらなければならないし、それにスグリはムラ中がびっくりするくらいの花冠を、姉のうつくしい赤毛に飾ってやりたいと思っている。

「…!」

がさり、と山の木々がざわめく気配がして、思わずスグリは身体を強張らせた。この傍にはたしか小川もあるはずだから、動物たちがこの場所に訪れる可能性は高い。鹿やノウサギならばいいけれど、熊やイノシシだったらちいさなナイフしか持たないスグリには到底かなわない。

「…」

咄嗟に木の影に隠れて様子を窺えば、さきほどまでスグリが花を摘んでいた場所に一頭の鹿が跳ねてくるのが見えた。それにほっと息を吐いて、なんともなしにスグリはその鹿のほうをじっと見つめる。

スグリが普段見る鹿はすでに息絶えたあとの、狩人たちが持ち帰ってきたそればかりであったから、こうして生きている鹿をこうも間近で見るのはひどく久々のことだった。角が短い鹿はまだ幼いように見える。花をすこし匂ってから、なにかに勘付いたようにその小ぶりな耳をスグリのいるほうへと向けた。

その目線に誘われるように、スグリはわずかに身体を動かす。木の葉が僅かに音を立てた。それを聞きとったであろうその鹿は僅かに身体を強張らせただけで、逃げ出そうとはしない。そのつぶらな黒い瞳と目が合って、スグリはふいに、早く帰って花冠を編もうと思ったことを忘れた。

もと居た草原へとゆっくり戻っても、鹿は逃げようとはしなかった。そろりそろりと近づいてくるスグリのほうをじっと見据えている。その柔らかそうな毛並みに触れられるほどまで近づいて、スグリは花を入れた籠を傍らに置いて草原に膝を付いた。その顔を、興味深そうに鹿が覗きこむ。血の匂いのしない鹿は初めてだ。普段訪れる機会のない森は、こんなにもスグリのしらないことに満ちている。


目線を同じくしたスグリに、ますます鹿は興味を示したらしかった。柔らかな花畑を踏みしめて、僅かな距離を詰める。

「わ」

なにかをスグリがするよりさきに濡れた鼻を頬に押し当てられて、スグリは思わず身体を竦めた。すぐに鹿の顔は離れていったけれど、スグリの胸はいきなりのことに跳ねあがった。これがもし熊であったら、とか、鹿に鋭い牙があったら、とかそういったことを考えてしまうのは、心配性のスグリの悪い癖である。

今度はこちらから触れてみようと、スグリは恐る恐る鹿の背に手を伸ばした。その手がそこに触れんとする刹那、ふいに鹿が頭を上げた。そしてスグリにもそうと分かるほどその全身に緊張を走らせ、スグリがなにかを言うよりさきに、傍らの花籠を蹴飛ばして驚くような速さで逃げてゆく。

あっけに取られて何事かと顔を上げた瞬間、スグリは息ができなくなった。

「…!!」

こちらにまっすぐと向けられるのは遠目でもそれとすぐにわかる鋭い矢尻。その陽光を刺す輝きに、文字通り射竦められて動けない。逆光でよく見えないが、ひどく背の高い人間がそこにいることだけはわかった。

「あ…」

逃げようと足を叱咤してもすこしも動かず、スグリは身体を固くする。しかしそんなスグリをよそに、鹿を見失ったと知った人影はすぐにその引き絞っていた弓を下ろした。それによって矢で射られることがないとわかり、スグリはそろそろと息をひとつ吐く。弓を向けられることは初めてだったけれど、背中がいやな汗でぐっしょり濡れるくらいには恐ろしい。あの鹿はいつもこんな目に遭っているのか、と場違いなことを思った。

「あ、あの…」

恐る恐るスグリが声を上げる。逆光のひとが、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。その顔がしっかりと見えて、今度こそスグリは蛇に睨まれたカエルのように動けなくなる。その人間は、スグリの知らない男だった。

「…」

なにかを、言っている。意味ひとつわからないそれに、スグリは立ち上がって逃げることも忘れてただただ恐怖におびえることしか出来なかった。スグリが顔を知らないうえに、その腰には剣や矢筒が提げられて、スグリの見たことがないような服を着ている。かれがこの山に住む、狩猟のうまい集落の人間であることはすぐにわかった。

争っては決して勝てない、ずっとスグリたちが怯えて暮らしていた人間が、目の前にいる。それが戦うことのできないスグリの身体を射竦め、はくはくと定まらない呼吸を繰り返しながら、スグリはゆっくりと瞬きを繰り返した。

長く紅い髪を頭頂近くでひとつに括り、意志の強そうな薄い茶の瞳をまっすぐにスグリに向けているその男。年のころは、ちょうどクサギと同じくらいだろうか。スグリよりいくつか年上のように見える。そしてムラでも屈指に背の高いクサギと、同じくらいに背が高い。恐ろしいほどに感じる威圧感に、スグリは何も言えなくなってしまった。

まだ何か、スグリには分からない言葉で男はスグリに話しかけている。ただ首を振ることしか出来なくて、スグリは自分で集めた花にまみれてひたすらに目の前の男がどこかに行ってくれることを祈った。

「…」

ふいに言葉を切った男が、スグリに触れられるほどの近くまで寄ってくる。逃げようと腰を浮かせたけれど、慌てるあまりそのまま尻もちをついてしまった。花の強い香りが、ふわりと周りにまき散らされる。

「ひっ…」

男の形のよい唇が、なにか言いかけたように開かれて、そして何も告げぬままに閉じられた。そしてその腕は、スグリの細い首を容易く折ることはなく、黙って散らばった花へと伸びる。思わず目を見開いたスグリの前で、その異族の男は手早く花を集めていった。

「え…?」

何が起こっているのか理解をしきれていないスグリのまえで、男は手際よく籠に花を入れ直している。スグリの服に引っかかった花まですべて取って元に戻してしまうと、男は僅かに目を細めてスグリの膝の上にその籠を乗せた。

「…あ、」

呆けたようにその男の顔を見つめていたスグリが、慌ててひとつ頭を下げる。男はかるく首を振って、それから座り込んだままのスグリに手を伸ばしてきた。それを取っていいものか、それとも駄目なのか考えるよりまえに、スグリはその手を掴んでしまう。力強く引き起こされて、スグリはすこしふらついた。

「あ、その…、ありがとう」

男のその淡い茶の色をした瞳があんまりにきれいだったから、スグリは通じないとわかっている言葉でそんなことを言っていた。案の定首を傾げた男が、それでもなんとなく意味を感じたのか唇の端を上げて頷く。かれはとん、と自分の胸を拳で叩いて、それからもともとかれが来たほうを指差した。あちらに住んでいる、ということだろうか。

「えっと…俺は、」

なんとなくこの男に先ほど覚えた身が凍るような恐怖を失ってしまったスグリは、それに応じて自分の胸を拳で叩き、自分が来た道を指差す。男にもそれは伝わったようで、かれはひとつ頷いた。

かれの背の高さは、隣に立ってみればよくわかる。スグリの頭のさきは、ちょうどかれの胸くらいまでしかなかった。けれどさきほど感じた威圧感をもうスグリが覚えないのは、花を扱うかれの手がひどくやさしかったからだろうか。

「…」

なんとなくスグリは、籠のなかから一番大きな真白の花を掴みだし、それを男のまえに突き出していた。嬉しかったのかもしれない。異族の男はスグリを取って喰いはしなかったし、やさしくもしてくれた。かれの大きな手は、クサギに頭を撫でられたときのようにあたたかく安心感をスグリに与えたのだ。

俺に?とでも言いたげに、僅かに目を丸くした男が自分の胸を指差す。それに頷いてその手に花を押しつけて、スグリはぺこりと頭を下げた。早くムラに帰らなければ、今度こそほんとうに心配を掛けてしまう。花冠を編むのだってすぐ出来るわけではないことを、今更ながらに思い出していた。

花はスグリのせいで鹿を狩れなかったことへの、スグリなりの謝罪だった。スグリの顔と手の中の花を見比べていた男が、ひとつ笑う。笑えば存外にかれが幼い顔になることに、スグリはすこし驚いた。





 

 

 

 

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