数学君と国語くん


「工藤」
 職員室の前で、知った声に呼び止められた。去年のクラス担任の谷岡先生、通称谷さんだ。
「何? 谷さん」
「お前、今から部室行く?」
「うん」
 うなずくと、谷さんは数冊の本とプリントの束をかざした。
「ちょっとさあ、これ情報実習室に持ってってくんね?」
「数学部?」
 谷さんの専門は数学。そしてうちの高校には、あまり聞き慣れない数学部なるものがある。何をやってる部なのかはよく知らないけど、とりあえず俺の文芸部の部室と同じD棟にある情報実習室を使っているらしい。
「そう。で、俺用事で三十分ほど遅れるからっつっといて。今日たぶん一人しかいないと思うけど」
 うっ。
「笹川?」
「そうそう。よろしくな、でこぼこフレンズ」
「フレンズって俺、話したこともないんだけど笹川と」
「え、そうなのか?」
 谷さんは意外そうな顔をした。確かに俺たちは、一緒に話題にされることもあるみたいだが。
「だって、クラス違うしあんま接点ないし。なんかちょっと、近寄りがたいっつか」
「んーまあ、興味の対象が高校生らしくないけど、別に嫌な奴じゃないぞ。この際フレンズになっとけ」
「どの際だよ」
「なんでもいいや、頼むな」
 そう言ってこの適当教師は、俺に荷物を押しつけ、さっさと職員室に帰ってしまった。

「入りまーす」
 ノックして情報実習室に入る。十数台のパソコンが居並ぶ中、谷さんの言ったとおり、一人だけ生徒がいた。俺と同じ二年生、くせのある黒髪の、ひょろっとした眼鏡男子。椅子に座り、紙パックのコーヒー牛乳飲みながら……何その「月刊・数学の世界」って。世の中にはそんな月刊誌もあんの。広いな世の中。
 顔を上げたその同級生、笹川に、
「これ、谷岡先生に頼まれた。先生用事で三十分ほど遅れるって」
 と告げて、託された本その他を机の上に置いた。
「……どうも」
 笹川はプリントの束を取り上げ、中身を確認するようにめくり始めた。図形や数字・記号の連なる、俺にとっては何を問われているのかすら理解不能な設問の数々。そして、やっぱり漂う近寄りがたい空気。
 笹川一幾(かずき)、数学マニア。その学力は、年一回催される数学に秀でた若人の祭典・国際数学競技会に、二年連続で日本代表に選ばれているという折り紙つきのものだ。もちろん成績も常にトップ。ただし、数学のみ。数学以外は普通かそれ以下、特に国語は危険水準らしい。そのきっぱりとした数学への偏向ぶりと、普通の高校生なら大好きなはずのテレビや漫画やゲームや音楽などにはほとんど興味を示さないという仙人じみたキャラクターで、校内ではかなりの有名人だ。
 横に置かれた本も、幾何がどうだとかナントカの定理だとか、俺は一生読むことがないと断言できるタイトルだった。きっとこの眼鏡は、躊躇なくその表紙を開くんだろう。
「ほんとに、数学好きなんだ」
 なにげなく出た言葉に、笹川は、
「……工藤は、国語が好きなんだろう?」
 度の強そうな眼鏡のブリッジを押し上げながら、俺の名前の入った台詞を返してきた。驚いた。
「俺のこと、知ってるの?」
 俺は笹川とは真逆に、国語の成績がトップで、数学がまるでだめ。なので対で話題にされることもあるが、あくまで「笹川の」対だ。彼ほど突出したキャラではないから、知名度は低いはずだけど。
「谷岡先生から聞いたことがある」
 ああ、なんだ、そこからか。ちょっと残念。
「『お前ら足して2で割りたいと思ったけど、割ると普通以下になるからやっぱ駄目だ』って言ってた」
「ひでえ谷さん……」
 元担任の遠慮ない物言いに軽く傷ついていると、
「工藤に聞きたいんだけど」
 笹川の方から話しかけてきた。意外。
「何?」
「こないだの実力テスト、国語の問四、できたか?」
「『この時の彼の心情を述べよ』ってやつ?」
「そう」
「一応、できたよ」
 よくある長文読解。文章の一部に傍線が引いてあり、この部分の登場人物だの筆者だのの心情を読み取れというあれだ。
「俺、ああいう問題がいちばん苦手なんだ」
 笹川はそれがくせらしく、また眼鏡を押し上げながら、しごく真面目に、
「いくら考えてもわからない」
 と言った。俺はそんなに難しいとは感じないのだが、確かにあの系統の問題は、苦手な奴は苦手らしい。でも、愚痴っぽくも投げやりっぽくもなく、真面目に「わからない」と言うのが笹川らしいと感じた。話すのは初めてだけど。
「確かに、『この時の○○の心情を述べよ』って言われて、何かが正解として決められていても、○○が本当にそう思ったのかなんて、わからないよね」
 これは、俺もいつも感じていたことだ。
「架空の物語ならなおさら、実在しない人物が何を考えたかなんて……」
 そこで、目の前に座る男が何か驚いたようにこちらをじっと見上げていることに気づいた。
「どしたの」
「国語できる奴が俺と同じこと考えてるなんて思わなかった」
 口を開いた笹川は、本当に不思議そうにそう言った。俺はちょっと笑いながら、続けた。
「結局、『出題者が答えにしたいこと』がわかるかどうか、だよね」
 すると、笹川は目を見開いて、
「そうか!」
 と、まるで新しい公式にでも気づいたかのような大きな反応をした。しかし、すぐにまた真面目な顔に戻った。
「俺にはその『出題者が答えにしたいこと』もわかる気がしない」
 ……なんか、面白い、この人。
 笑いをこらえつつ、
「でも、笹川は数学すごいじゃないか。俺には数学がその状態だよ。俺にしてみれば、出題者の気持ちしだいで正解が変わるような問題より、万人が認める絶対の正解を導き出せる笹川がうらやましいな」
 と言った。すると彼は、みたび眼鏡を押し上げた後、俺を見て。
「俺は、出題者によって正解が違うようなあいまいな問題を解けるお前の方がすごいと思う」
 その言葉からは、謙遜とかお世辞とかひがみとかプライドとか――たぶん俺の台詞の中には多少なりとも入っていたそれが、まったく感じられなかった。
 純粋な、賛辞。

 頭の中が、ぐらりと揺れた。ひっぱられる。何に?
 眼鏡の奥のまっすぐな瞳に、耐えきれなくて。
「あ、えと、俺、部活、行くから」
「ああ」
 俺は、逃げた。


 今、「この時の工藤の心情を述べよ」という問いがあったら。
 「敗北感」までは、書ける。
 それ以上は、書けない。


−終−