◇ 空に向かって拳銃を φ ◇ 


 スズメたちのさえずり声が、腹立たしいほどのすがすがしさで辺りに響き、初夏の朝の訪れを告げていた。
 スズメの肉って、食べれるのかな―――
 そんな風に考えながら、統也はまぶたを閉じたまま、空腹に響くスズメの声をやり過ごそうと試みた。
 いくら食べられるとしても、飢え死にしかけの今の自分に、すばしっこそうなスズメを捕らえられる気はしない。どうせなら、飛べないキウイやペンギンあたりがうろついていてくれればいいのに。
「喧嘩か?」
 どこからともなく、今度は男の声がした。
 人の肉も食べれないよな―――
 朦朧とした頭の隅で、そんなことを考えながら、統也はうっすら目を開けた。建物の壁に背中をもたれて寝たせいか、首も身体もあちこち痛い。
「怪我をしてるようには見えねえな」
 男の声が、また言った。妙な色気を漂わせている、かなり低めの男の声だ。
 声の主を視界に捉えられないままに、統也は乾ききっていた口を、唾液でゆっくり湿らせた。何度か唾を飲み込むと、どうにかかすれた声が出る。
「喧嘩も怪我もしてません。勝手に行き倒れてるだけです」
「そうか」
 面白がっているように、声に含み笑いの響きが混じった。
 砂利を踏むような足音とともに、声の主が統也の前に姿を見せる。
 丁寧に磨き上げられた革靴が、統也の視界に映り込む。胃袋をねじ切りそうな空腹感を、歯を食いしばって堪えつつ、統也は目だけ動かして、男を見上げた。
 年齢は三十代の前半くらい。黒髪を無造作に後ろに撫でつけ、生地の厚いダークグレイのスーツを着ている。顔立ちは整っているものの、その目つきはかなり鋭く、そこらの女が気軽にきゃあきゃあ騒げるタイプの美形とは、明らかに違うタイプの男だ。
 何にせよ、平日の朝っぱらから、皺一つないスーツ姿で繁華街の路地に現れるような男が、まともな職の男であるはずがない。
 どちらともなく視線を合わせて黙っていると、やがて、男は興味深げにその鋭い目を細め、統也を上から見下ろしながら口を開いた。
「駅前の喫茶店のモーニング、食いに行くけど、お前もどうだ?」
 ―――繁華街の路地裏で、朝っぱらから空腹のあまり行き倒れている人間なんて、この現代日本では、案外もの珍しいのかもしれない。


 男は筑波大志と名乗った。
 駅前にある古ぼけた喫茶店の薄暗い照明の中、筑波は時折煙草の煙を吐き出しながら、特に何を言うわけでもなく、食事中の統也を見ていた。
 二人分のモーニングセットは、筑波の分のコーヒー以外、トーストからフルーツに至るまで、残さず食えと言わんばかりに統也の前に押しやられている。
 バターとジャムをたっぷり塗った分厚いトーストにかぶりつき、付け合わせのポテトサラダを口に運ぶ。半熟のハムエッグは、一口でほとんど全部食べてしまった。
 空腹を満たそうと急ぎすぎ、むせそうになってコーヒーに手を伸ばす。火傷しそうなコーヒーは、咳き込みをおさえるためには幾分不向きな飲み物だった。
―――おい、牛乳持ってこい」
 筑波が統也の様子を眺め、やる気のなさそうな中年店主に向かって言う。
 店主は無言で冷蔵庫を開け、ピッチャーに入った牛乳と、大きなグラスを統也の前に並べて置いた。
 グラス一杯の牛乳を一息で飲み干して、統也は大きく息をついた。
 ふと見ると、筑波はテーブルに片肘を付き、なおも統也を観察している。
 拾った猫がエサにがっつく様子を眺めて、楽しんでいるかのような表情だ。
 統也の視線に気が付いたのか、筑波は唇の端をかすかに上げた。多分、微笑したのだろう。
「誰も盗らねえ。ゆっくり食えよ」
 まるっきり、犬猫の扱いだ。
 人間としての尊厳を取り戻すべく、統也は空のグラスをテーブルの端に置き、口元に付いたパン屑を指で拭った。
 指にはパン屑以外にも、泥や砂埃が付いてきた。一体自分は、どれだけ薄汚れた顔をしているのだろう。
 犬猫も犬猫、これじゃあ泥だらけの野良扱いされるのも、無理はないかもしれない。
「お前、何で行き倒れてたんだ。その年でホームレスか」
 煙草の火をもみ消して、筑波が問いかけてくる。
「この前、家出してきたところで……」
「そりゃあ豪儀だ」
 統也の答えに、筑波ははじめてはっきり笑って見せた。
 笑うと目元の鋭さが消え、案外優しそうになる。元々整った顔立ちは、笑うとさらに際立った。
 トーストを食べる動きを止めて、統也が思わず筑波の笑みに見入っていると、筑波はコーヒーのカップを取って再び尋ねた。
「お前、荷物はどうした。手ぶらじゃねえか」
「いえ、あの……」
 統也は一瞬言い淀み、口の中のトーストを飲み込んで、それから渋々頷いた。
「そうです、実は手ぶらで来ました」
 半ばやけくそになりながら、仕方なくそれを認める。正確には、統也が家から持ってきたのは、財布と携帯電話だけだった。
「荷物も持たずに家出かよ」
「……はい」
「お前、いくつだ」
 5歳児か、とでも言いたげな聞き方だった。
「18、です」
「18ねえ……」
 筑波は少し足りないものを見るような目で統也を眺め、それからゆっくりコーヒーを口にした。
「18ってことは、高校生か」
「いえ、高校は今年の春に卒業しました。今は、いや、家を出る前は、予備校に通いながら家業の手伝いをしてて」
「家業? お前、もしかしてどこぞやのぼんぼんか?」
 筑波は興味を引かれたように、カップから口を離して統也を見つめた。
 家業という響きから、日本酒の蔵元であるとか、呉服屋であるとか、筑波はそういった伝統的な何かを想像したらしい。世間知らずのご令息なら、考えなしに家出するのもさもありなん、というわけだ。
「ええと……、家業ってほど大したものでもないんですけど」
 筑波の期待を裏切るようで、言いにくさを感じたものの、統也は正直に説明するべく口を開いた。
「自宅兼店舗で、母が小さなスナックをやっていて」
 統也の家は、ここから数時間ほど長距離バスに揺られた先の、とある地方都市にある。
 父親の顔は知らず、女手一つで統也を育てた母親が、常連客を相手にしながらスナックを営業し、ささやかながらも親子二人で暮らせる程度の金を稼ぎ出していた。
「スナックか」
 統也の言葉にがっかりすることもなく、筑波はただ淡々と頷いた。
「それでお前、手ぶらで家出してきた理由は?」
「母の再婚相手のことで、ちょっと揉めて」
 久しぶりの話し相手と、たっぷりとした食事に気を緩ませて、統也は筑波を警戒することもなく、問われるままにぽつりぽつりと話を続けた。
「うちの母親、35歳で、まだわりと若いんです。見た目以上に気も若くて、家にはよく昔から、母の恋人の若い人たちが出入りしたりはしてたんですけど―――
「母親が男といちゃつくのが嫌だったのか?」
 それで家出か? と、筑波がからかうように言ってくる。
「違います」
 マザコン扱いされるのは心外だ。統也はいくらかムッとして、果敢に筑波を睨んで答えた。
「付き合うだけなら、母がどんな相手と寝ようと構いませんよ。別に俺には関係ないし」
 我が母ながらぼんやりとした女だが、仮にも大人である以上、統也がその色恋沙汰に、わざわざ口を挟むこともない。
「付き合うだけなら勝手ですけど、ただ、母が急に「私、結婚したからね」なんて言い出したりしたもんだから―――
「なんだ、やっぱりマザコンじゃねえか」
「違いますって!」
 統也は思わず声を荒らげ、それからはっと気付いて口をつぐんだ。
 少し心配したものの、筑波が気を悪くした様子はなかった。堅気には到底見えない男のわりに、筑波は案外寛大なのかもしれない。
 大声を出した罰の悪さをパンを齧ってごまかして、ややあってから、統也は再び口を開いた。
「だって、母が再婚したっていう相手、まだ22歳なんですよ。俺と4つしか違わないような若い男と、いい年の母が浮かれて結婚するなんて、見てて痛々しいじゃないですか。せめて、入籍する前に一言教えてくれればよかったのに―――っていうか、入籍する前にそういう報告してもらうのって、息子の権利じゃないんですかね?」
 一息にそれだけ言うと、さすがに少し息切れがした。統也は一旦話を止めて、牛乳で喉を潤した。
「それで?」
 特に意見を挟むでもなく、筑波はさらに先を促す。
「『それで』って―――、うちの母、俺が何言ってもちっとも聞く耳持たないんです。「新しいお父さんよ」の一点張りで。急に自分と4つ違いの男連れて来られても、はいそうですか、なんて普通納得できませんって」
 筑波に向かって切々と訴えているうちに、まざまざと、母と相手の男の顔が、統也の脳裏によみがえってきた。
 十日ほど前に起こった、電撃的な入籍発表の時の二人だ。閉店後のひと気のない店、結婚を間近に控えた幸せそうな若い二人、もとい、入籍して幸せそうな35歳の母親と、統也とは4つ違いの新しい父。
 思い返すと、ため息が湧いてきた。
「相手の男も男ですよ。うちの母なんて四捨五入したら40歳だし、特に金持ちってわけでもないのに、結婚なんかしてどうしようって言うんです? もう、三人で話をしてても埒が明かなくて。どっちにしてもあの二人、もう籍入れて結婚しちゃってるわけですし、それなら勝手に新婚生活してろって言い捨てて、勢いのまま―――、その……飛び出して来ちゃったんです」
 最後の方は、自然と声が消え入りそうになってしまった。
「それでお前、荷物も持たずにそのまま家出か」
 筑波は呆れて見せるでもなく、ただじっと統也を見つめてつぶやいた。
「はい……」
 統也は渋々認めて頷いた。
 今さら嘘をついたところでどうしようもない。衝動のままに家を飛び出し、目に付いた長距離バスに飛び乗って、こんなところにたどり着いたというわけだ。
「お前、馬鹿だな」
「……はい」
 仕方なく、統也はそれも認めて頷いた。せめて、着替えと貯金の入った通帳くらいは、まとめて持ってくるべきだった。
 母の入籍を怒ったところまではよかったし、今でも撤回する気はないが、怒りに任せて飛び出して来てしまったあたりが大問題だ。
「お前、馬鹿で、その上とんだ考えなしだな」
 再び筑波が、今度はしみじみと言ってくる。
 悔しいが、これも否定は出来なかった。
「お前、これから一体どうするつもりだ?」
「どうする、と言われても」
 自分でもまだ分からない。
 答えに困り、統也は間を持たせるように、よく焼けたトーストの耳を齧った。
「お前、本当に考えなしで、底なしの間抜けだな」
「どうやら本当にそうみたい……です」
 筑波の言葉を認めて頷くしか出来ない、そんな自分は、本当に間抜けのようだった。


 食事を終えて喫茶店から表に出ると、統也は「ご馳走様でした」と礼を言い、筑波に向かって深々と頭を下げた。
 筑波は「ああ」と一言だけで統也に応じた。
 さて、これからどうするべきだろう。膨れた腹をさすりつつ、統也は行く当てもないままに、きょろきょろと辺りの様子を見回した。都会の街の駅前は、スーツ姿の勤め人や、制服を着た学生連中で溢れつつある。
 ひとまず腹は満たされたものの、このままぼんやりしていたら、またすぐ行き倒れの危機に瀕するのは間違いない。
 とにかく行き倒れないように、まずは金を稼ぐべく、自分も何か、彼らのようにきちんと仕事を見つけるべきだ―――
 そんな風に考えて、統也はふと、埃にまみれた自分の姿を見下ろした。
 通りを歩く人々は、好奇の目こそ向けて来ようとしないものの、川の水が石を避けて流れるように、自然な様子で統也の手前で左右に分かれ、薄汚れた統也の身体を迂回して、後方に立ち去っていくようだった。
 まともな仕事を探すには、この野良犬めいた格好を、先にどうにかしないといけない。
 せめてまずは顔を洗って、汗と埃にまみれた服も洗濯しよう。
「この辺に、川とか池ってありますか?」
「お前、俺の部屋に来てみるか?」
 統也と筑波がそう言ったのは、ほとんど同時のことだった。