春雷 01

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 彼の母に会うのは15年振りくらいだろうか……と記憶を辿りながら、もう随分と風景が変わってしまった道を慎重に辿って行く。
 学生時代は、ほとんど毎日の様に通っていた江見の実家も、彼が結婚してしまってからは、ほんの数回程度しか顔を出した事はなかった。


 江見隆史とは、高校時代に同じクラスになり仲良くなった。
 見た目も性格も正反対だったのに、何故だかやけに意気投合した彼は、きっと『親友』と呼べる唯一の親愛なる友人だった。
 堅苦しい事が嫌いで大人になってからもフラフラと遊んでいて、結局、少しばかり得意だった『絵を描くこと』を生業にした自分と違い、責任感が強くて生真面目な性格だった江見は、大学を卒業後、名前を聞いただけで分かる様な一流企業に就職した。
 別世界に行ってしまった江見とは、もう縁が切れてしまうんだろうな……と寂しく思っていたのに、彼はそんな事を気にする風でもなく、今まで通りに親友関係を続けてくれた。
 お互いに好きな女が出来て結婚し、子供が産まれて大きくなってからも、お互いの新しい家族も交えてずっと交流が続いている。
 そんな彼と、ある日突然、連絡が取れなくなった。


 江見との連絡が途絶える数年前、ふと思い立って、海外に移住してみる事にした。生業にしている、絵を描く事に少々行き詰ってしまい、少し気分転換したかったのがその理由だった。
 最初は一人でふらりと一、二年程度……と思っていたのに、古風で真面目な性格をしている妻の和枝が「家族が別々に暮らすのは良くないし、心配だから……」と家族全員で移住する事を希望してきたし、当時は中学生だった息子の佑輔も、海外での生活に興味を持ってくれたのか「一緒に行きたい」と言ってくれた。
 江見や彼の家族達と離れるのは少し寂しいけど、どうせ直ぐに戻ってくる。
 長くても五年程度、佑輔が大学に入る前には帰ってくるから……と言い残して、家族揃って異国の地に移り住んだ。
 佑輔の学校の都合もあるし、とりあえずの拠点をイギリスに決め、そこで安い家を借りた。
 もう見慣れてしまった日本と違い、何もかもが物珍しい海外での生活は本当に面白くて、家族全員で楽しい時間を過ごしていった。
 日本にいる江見と日々の色んな事をメールでやり取りしながら、気が向けば近隣の国にへも足を伸ばして、消えかけていた創作意欲を充電していく。
 俺は本当に、根っからの風来坊なんだろうなぁと苦笑しつつ、久々に描き溜めた絵を公園に並べて、通りすがりの人々に売ってみたり、慣れない外国語に冷や汗をかきつつ画廊に売りこみに行ったりと、日本では味わえない刺激的な日々を、心の底から満喫していた。


 そんな他愛のない日常を綴ったメールに、こまめに返信をくれていた江見からの連絡が、急に途絶えた。
 最初は「仕事が忙しいんだろう」と気にも留めてなかったものの、そのまま数週間が過ぎてしまうと、流石におかしいと思えてきた。
 其々に大人になって不安を感じた頃ならともかく、今になって江見が唐突に縁を切る理由は無い。
 普段はメールばかりで気にしていなかった時差を考え、日本では日曜の日中にあたる時間に、何度電話をかけてみても通じなかった瞬間、嫌な胸騒ぎを感じた。
 彼の様子を見に行って貰おうにも、江見と面識のある母は、数ヶ月前から少々体調を崩している。年老いた母の具合もある事だし……と、家族皆で話し合って、急遽、日本へ戻る事を決めた。
 そう決めたものの、数年間を過ごした地での生活を急に捨てる訳にもいかない。
 海外校からの編入になってしまう佑輔を受け入れてくれる日本の高校を探したり、此方で付き合いの出来た画廊に、日本から作品を送る仲介者を探したりと帆走しているうちに、あっと言う間に数ヶ月が経ってしまう。
 その間に消えてしまったメールアドレスや、解約されて繋がらなくなってしまった電話に、ざわざわと落ち着かない気分を募らせながら、ようやく日本にへと戻ってきた時には、江見と連絡が取れなくなって既に半年が過ぎていた。


 日本に戻って来るなり、彼と家族が住んでみたマンションを訪れると、既に他の家族の名前に変わっている。
 また新しい生活を整えていく合間に、もうほとんど忘れかけていた記憶と古い荷物を漁りまくって、何とか思い出した住所を手に、江見の実家を訪ねることにした。
 メモに控えてきた番地を頼りに、当時の面影の無い道を辿っていくと、昔と変わらず、江見の実家は其処にあった。
 ホッと胸を撫で下ろしつつ、玄関のインターホンを押してみても反応は無い。それでも、以前と同じ表札の名前と、確実に今でも誰かが住んでいる家の気配に、そう落胆は感じなかった。
 江見が此処に戻っている確証はないけど、少なくとも、彼の親は当時のまま住んでいるらしい。
 少し何処かで時間を潰して来るか……と考えていた瞬間、今、自分が歩いてきたばかりの道に現れた初老の女性の姿に、思わず顔が綻んでしまった。


「ごめんなさい、少し買い物に出てたんだけど……うちに何か御用かしら?」
 宅配便業者や、スーツ姿のセールスマンでもなさそうな、ジーンズにシャツを羽織っただけのラフな服装の中年男性が突然訪ねてきて、不思議に思ったのかもしれない。訝しそうな表情で問いかけてきた江見の母に、思わず苦笑いを返してしまった。
「お久しぶりです……やっぱ、分からないですよね。俺、浜砂です。浜砂総一郎。覚えてますか?」
「――――え、浜砂!? 総ちゃんなの?」
 もう滅多に呼ばれる事のなくなった学生時代の愛称を口走り、大きく目を瞠って本当に驚いた様子で見詰めてくる江見の母に、髪をかき上げつつ苦笑を返した。
「はい、ホントに久しぶりで。15年ぶり位かなぁ? おばさんは元気そうで良かった」
「ありがとう、私は元気だけど……総ちゃん、家族皆でイギリスに行ってるんじゃなかったの? そう聞いてたんだけど」
「もう、家族全員戻ってきました。これからは日本で生活します。それで、隆史は……?」
 あえて「隆史と連絡が取れない」とは言わず、それだけを問いかけてみる。
 言葉の足りない問いに訝しむ様子もなく、静かな微笑を浮かべてジッと見上げてくる江見の母の姿を、只、無言で見詰め返すしかなかった。






 江見との連絡が途絶えたあの日、彼は永遠に旅立っていた。
 もう息子達も大きくなり、家族旅行にも行かなくなった休日、今でも新婚時代と同じ位に仲の良かった妻と二人だけで旅行に出かけた先で、彼は大きな事故に巻き込まれてしまったらしい。
 両親を亡くした子供達を引き取り、感傷に浸る間も無く、世間に対する諸手続きを済ませ、ようやく最近になって生活も落ち着いてきた……
 そう話す、江見の母の言葉を、唇を噛み締めながら無言で聞いた。


「――――すぐに連絡をくれれば良かったのに……おばさんは分からなくても、大祐や葵は、俺との連絡手段を知っていたと思う」
 残された江見の息子達の名前を告げつつ、そう聞いてみると、江見の母は口元を緩めたまま頭を横に振った。
「日本にいたのなら、すぐにでも連絡してたんだけど……お墓参りにも気軽に来れない、遠い所に住んでる総ちゃんに事実だけを告げるのを迷ってしまって。それに、あの子達も『今は教えなくていい』って言ってたから。日本に帰ってきたら、絶対に探し出して来てくれるから……って」
 返ってきた言葉は予想していたのと同じだけれど、それを本当に言われてみた所で、やっぱり、なんて答えれば良いのかは分からない。
 途切れそうになる言葉を必死で繋ぎ合わせ、ポツリポツリと会話を交わしている所に、長男の大祐が学校から戻ってきた。


 大学生になっていた彼は、両親を亡くした後、退学して調理師になる学校に通い始めたらしい。
 既に祖父は亡くなっていたから、祖母との三人暮らしで料理を手伝っているうちに、それが意外と楽しい事に気付いたし、学校から紹介される所でバイトが出来るから学費もそれで充分に賄える。
 葵はまだ高校生だから、アイツにバイトさせたくないし……と屈託ない笑顔で話す大祐が、昔と変わらず前向きで明るい雰囲気を持っていてくれた事に、胸のつかえが少しだけ解れる気がした。


「そうか……大祐、今日はバイトは休みなのか?」
「うん。バイト先の定休日だから。おじさんが来たの、今日で良かったな。普段は荷物だけ置いて、速攻で行かなきゃ遅刻するからさ。そのまま学校から直行する事も多いし、話す時間も無いんだよな」
「学校が終わって、直ぐにバイトか。もし、無理して入れて貰ってるんなら、少し軽くしても大丈夫だ。俺もこんな感じだからあまり期待されても困るが、学費程度なら援助出来る」
「俺は平気。結構、楽しんでやってるからさ。親の老後の面倒をみる必要が無くなったから、おばあちゃんだけで良いし。今みたいに元気な間は此処で一緒に暮らして、後はのんびりと、俺の好きな事やって暮らしていこうかなって思ってる」
 両親を亡くした当初は、きっと彼も落ち込んでいたと思う。
 そんな事は全く表に出そうとせず、穏やかな雰囲気でそう話す大祐の姿に、今は逆に励まされている様な……そんな気がしてならなかった。




 以前、住んでいた所の近くにある高校に通う葵は、結構な時間を費やして学校に通っているらしい。
 夕食の支度に向った江見の母の姿を眺めつつ、リビングで大祐と色んな話をしていると、周囲が少し薄暗くなった頃、玄関の方で物音が響いてきた。


「――――あ、総一郎おじさんだよね……?」
 息子の佑輔と同じ歳の葵は、最後に会った中学生の頃より随分と大人びた雰囲気に変わっている。
 それでもリビングに顔を出すなり、嬉しそうに子供の頃と同じ様に微笑んで問いかけてきた葵に、しっかりと頷いてやった。
「ようやく戻ってきた。隆史と連絡が取れなくなって、直ぐに帰国の準備を始めたんが……何かと手続きが多くて、予想以上に遅くなってしまった。悪かったな、葵」
「あ、ううん。それは大丈夫。俺達の方も直後は色々と混乱してたからさ……落ち着いてからの方が良いと思って、おじさんには連絡しなかった。日本に帰ってきたら絶対に此処に来る、って分かってたから。いつ戻ってきたの?」
「先週の半ばだ。まだ一週間も経ってない。佑輔も今日から高校に通い始めたばかりだ」
 昔の江見と自分を見ているかの様に、葵とも随分と仲の良かった息子の名前を出した瞬間、彼の表情がパッと緩んだ。
「そうなんだ。佑輔、元気にしてる? 普通の高校に入れたんだ。帰国子女が行く学校があるのかなって思ってたんだけど」
「佑輔は無駄に元気だぞ。まだ二年生だから、何とか普通の高校に編入させて貰えた。色々と試験もあって大変だった様だが、俺と違ってアイツはしっかりしてるからな。葵は、ずっと同じ高校に通ってるそうだな」
「うん。ちょっと遠いけど、何とか通えるしさ。俺も転校しようかなって思ったけど、ホントに知らないヤツばかりになるから。それに、この付近の高校ってあんまり転校生が来ないらしいんだ。変に目立つのも嫌だし、少し頑張って前のトコに通おうかなって」
 葵と高校の事を話している途中で、夕食の支度が整ったらしい。
 「一緒に夕食を」と誘ってくれる江見の母にお礼を告げ、廊下の方に出てから、家で連絡を待つ妻にへと電話をかけた。


 もしかしたら……と予想はしていたものの、やはり事実となると、電話であっさりと済ます事じゃない。
 ショックを隠しきれない妻に、残された息子達の現在の状況を簡単に伝え、夕食を此方で食べながらもう少し話をしていく事を告げて、電話を切った。
 妻に説明している間に、決心がついた気持ちを整理しながら、賑やかな話し声の聞こえるリビングの方に向っていく。
 もちろん、それを強制するつもりはないし、誰か一人でも反対すれば止めておこうと考えている。
 でも何となく、誰も反対しないだろう……って、そんな気がしてならなかった。
 とりあえず、本人の意思確認だなと思いつつ、懐かしい面影の残る廊下を戻り、大きくなった江見の息子達が待つリビングにへと戻っていった。






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