形而上 世界

01




 八月の演目は、二年生の黒須が書いた『ダブル・マスク』だった。オペラ座の怪人をアレンジしたもので、怪人をファントムとエリックというふたつの葛藤する心として別々にキャラ立てした脚本を、菰田隆也はとても気に入った。
 ただ、最後の最後でファントムが何も言わずに終わるのが、いまいち納得いかずにいた。
 その納得のいかなさが払拭されたのが、ゲネプロまであと十日に迫った暑い日のことだった。
「いやー口止めされてたんだけど。やっぱモノの出来に関わるし言っちゃおうって思って」
 佐生昂成。三十二歳。もう大学を卒業して十年経つくせにちょこちょこと顔を出すこの男が爆弾を落としに来たのだ。
「なんですか、口止めとか出来とか」
 尋ねると、佐生は「んんと」とひとこと唸りきょろきょろと教室内を見回した。
「黒須と赤座は今買出しです。そろそろ戻ってくると思うけど」
 隆也がそういい終わるか終わらないかのうちに扉が開く。なんだかむっつりとした顔の赤座と、疲れたような表情の黒須が入ってきた。二人でいるといつもニコニコしているイメージが強かったので、ちょっと不思議に思う。
 が、佐生の姿を認めると赤座はすぐに笑顔を貼り付け挨拶に寄ってきた。
 こういうところ、役者は信用ならないんだよなとこっそり隆也は思う。人として信用ならないのではなく、表出している感情をそのまま信じられないという意味でだ。
 対して黒須の方はどうも様子がおかしいままだ。こちらはこちらで腹芸できなさすぎだろうと突っ込みつつ、隆也は佐生の話を待った。
 しかし佐生が肝心の用件を話すより先に、黒須は具合が悪いので帰ると宣言し出て行ってしまった。『ダブル・マスク』に関わることならば脚本の黒須の在席は必須だろうに、黒須は「どんなことになっても文句は言わない」などと言い捨ていなくなった。
 仕方なく、佐生の話だけは聞こうと、隆也は赤座を同席させた。
「えーっと。こもちんさあ、ファントムの台詞が抜けてるんじゃないかって言ってたじゃない。あれビンゴなので」
「え」
 自分よりも早く、赤座が顔色を変えた。「どうして知ってるんですか」なんて佐生に詰め寄っている辺り、こいつはどうやら本来の脚本の姿を知っていたらしい。黙っていたことに後で文句を言ってやろうと心にメモしつつ、隆也も佐生を追及した。
「なんで知っているかは置いといて、どんな台詞なんですか。詳しく聞いてるんですか」
「愛は棘になるんだって」
「は?」
「えーと、完璧な台詞は聞いてないけど、立ち去ろうとするクリスティーヌに、ファントムは『愛している』と告げる。お前が俺を好きじゃなくても音楽を愛するみたいに愛してる、って」
「ああ……」
 なんとなく、すとんと腑に落ちた気がして隆也は頷いた。
 エリックではなくファントムが愛を告げるところに、意味がある気がした。
「じゃあ後で黒須に連絡してきちんと台詞上げてもらいます」
「あの」
 呟いた隆也に、赤座が小さく挙手した。
「俺、知ってます。完璧な台詞」
「まじか。そこまで知っててなんで黙ってた」
「……書き上がったばっかりのを見せてもらったんです。その場で演じさせてもらったから台詞も完璧に覚えてます。黙ってたのは──悠斗さんがわざと抜いたなら、何か理由があるんだろうなって思ったから」
 どこか悔しそうに、赤座が目を伏せた。
 一体、買出しの間に何があったのだろう。明らかに何かあったと悟らせるような顔を、このかわいげのないよくできた役者の赤座がしているのが珍しい。
 ただそこに踏み込むのは隆也の本分ではないから、「台詞書き出せ」と命ずるだけだ。結局黒須に何かを確認するまでもなく、脚本は本来の形に戻ることと相成った。

 赤座の提出した台詞を各自の脚本に書き足しさせた後、解散した。普段なら隆也はサークルメンバーと駅まで行くのだが、今日は佐生に訊きたいこともあり、皆より遅れて二人になってから学校を出た。
 駅までの道すがら、大通りには多くの車が走っている。日が落ちたばかりの空は薄紫で、空気は仄暗く、車のライトで照らされないと物が見えにくい。
「抜いた理由、佐生さん知ってるんでしょう」
「知ってるよ。赤座くんには言っちゃ駄目そうだったから内緒にしたけど、こもちんならいーかな」
 そういって、佐生が笑う。
 ほんとは口止めされてるから詳しいことは聞いたって言わないでね、なんて付け加えられ、黒須に少しばかり同情した。佐生の「内緒」は信じてはいけない。
「ファントムの愛の言葉は、ただの告白ではない。クリスティーヌはラウルを愛しているから、ファントムの愛は受け入れられない。でも受け入れられない愛は棘になって、相手の心に突き刺さる。──そういうつもりで書いたんだってさ。でも、ファントムを演じる赤座くんが語る『愛している』って台詞を浅ましくも自分宛のものとして聞いてしまうから、嬉しいと思っちゃうから、そういうさもしい心根がいやで削った、とかなんとか」
「……乙女回路装備って感じ」
 なんとかわいらしい事情だろうかと、隆也は呟いた。呆れに似たものが滲んだけれど、蔑みの意図は篭っていない。それを佐生もわかるのか、苦笑して「かわいいもんだね」と同意した。
「まあ台詞復活させた件は、黒ちゃんにはゲネプロまでは内緒の方がいいかもね」
「なんでです?」
「出来を落としてまで消したかった台詞を、『アレ入れることにしたからな』っていう先輩命令だけじゃ納得できないかもなって。消したのは後ろ向きリリカルが爆発した結果でしょ。だったらどうせなら完璧に仕上げた芝居を見てもらえば、案外ネガティブが抜けるんじゃないかと思うんだよね」
「まあ、それは一理あるかも。じゃああとで赤座にも台詞復活の件口止めしときます」
「うんうん」
 それがいいね、と頷いて、佐生は口に飴玉を放り込んだ。甘いもの好きというわけではなく、喉の保護らしいのだが、どこまで本気なのか佐生のことは未だによくわからない。
 しばらくの間、佐生は無言でころりころりとそれを口の中で転がしていた。子供のようにもごもごさせているのが頬の動きでそれがわかる。相変わらずな人だと、佐生を横目で見ながら隆也もまた無言でいた。
「なー」
「なんですか」
 もうあと少しで駅のつくという頃合に、佐生がひっそりと呼びかけてきた。
「……もう、脚本書かないって言ったの、まじなの」
 静かに問われて、困る。
 黒須ほどに明け透けでないにしろ、隆也も役者ではないから内側はどうしても透けてしまう。隠しておきたいことも、佐生の目には明らかになってしまうかもしれない。
 それはいやだ。
 書かない。書けない。本当はどっちでもない。書きたくない、だ。
 疲れるから。自分の内側を見つめて、見つめて、佐生への脚本を捧げるのは辛いから。だから書きたくないのだ。
「……まじですよ」
 できるだけ感情を映しこまないように平静を保ちながら告げる。
 佐生は、じっとこちらを見つめている。ただ薄暗くてその気配が伝わってくるだけで、どんな顔をしているのか、見えない。
 駅までもうすぐ。
 このまま、これ以上何も言わず、納得して電車に乗っていってくれ。
 そう思うのに、佐生はなんだか大袈裟すぎるようなため息をついた。
「こもちんが書いてくれないなら、どうすっかな」
 どうするというのだろう。
 書かないと宣言したのは自分なのに佐生の取ろうとする行動は気になる。
 自分がもう書かないとしたら、佐生は、どうするのだろう。
 もうずっと佐生のために脚本を書いてきた。出会ってからずっと、書いてきた。それを失くすのは、佐生にも少しは痛みとなるのだろうか。クリスティーヌに愛を捧げて棘としたかったファントムのように、自分は書かないことで佐生に少しでも痛みを感じさせられるのだろうか。
 そんな感傷が胸に渦巻いた矢先、佐生は言った。
「黒ちゃんに書いてもらってもいいかもなあ」
「え……」
「こもちんが書けないなら、他の誰かに書いてもらわないとならないじゃない?」
 と。
 薄紫の空の下、佐生の顔はやはり見えない。見えてもどうせこの人は役者だから、どんな感情で告げているかなんてわからないのだけれど。どうせ痛みなど感じていない顔をしているのだろうけれど。
 何も言えないまま駅に辿り着いてしまった。
 じゃあね、と手を振って逆側のホームへ佐生が行く。
 電車に乗って、二駅。ただ呆然としたまま隆也は自宅最寄の駅で降りた。
 住宅街の夜道は街灯があってもなぜか薄暗く感じる。取り囲む家々それぞれの中であたたかい灯りと団欒があるせいで、対比して道が暗く感じるのかもしれない。
『こもちんが書けないなら、他の誰かに書いてもらわないと』。
 そういった。
 隆也ではない替わりの誰かに書いてもらわないとならないと。
 それは、そうだ。
 佐生の劇団だっていつまでも隆也が昔書いたものをアレンジしてばかりではどうしようもない。過去作はどれも評価が高かったけれど新作をやらないのでは集客できなくなる。
 頭ではわかる、けれど。
 そう仕向けたのは自分のせい、だけれど。
 ──そういえば、こもちんなんて変な呼び方するようになったの、いつからだっけな……
 そんなどうでもいいことを考えてしまうのは多分、目を背けたい傷が今自分についているからだ。
 佐生にとって自分の脚本は替えが利くもの。黒須でもいいもの。そうきっぱりと宣告されたのだ。
 疲れていたのは本当だ。佐生にとって自分の脚本がどんな意味を持つのか考えてしまった頃から、書くのが辛くなった。書きたくないと思った。
 だが、まだ佐生のために書きたいという真実も隆也の中には本当は存在していた。目を背けて見ないようにしていたけれど、まだ書く気はあった。
 そんな小さな気持ちがほんの数十分前に粉砕された。
 ──『無償の愛は棘となって突き刺さる』。
 なんて、かわいらしい思考なのだろうか。
 それは相手が愛に重きを置いているという信頼があるからできる復讐だ。
 無償で愛を捧げ、捧げ続け、けれどそれを軽くいなされてしまう人間などたくさんいる。愛の言葉が棘となって相手を傷つけ膿ませることができると信じているなんて、本当に──黒須はかわいい。
 俺は、と隆也は息をついた。
 もう、いいのかもしれない。
 もう、佐生に書くことは本当に辞めてしまってもいいのかもしれない。
 彼にとってそれはきっとどうということはない出来事だ。黒須に書かせてもいいかもしれないなんて言うくらいだ。自分の前で。誰が書いたっていいと、あの人は思っているのだ。
 小さく、笑いの息が漏れた。
 夜道で歩きながら笑うなんて、俺はなんて気持ちの悪い男だ。そう思ったら余計おかしくなってきて、はは、と声を出して笑ってしまった。
 そうだ。
 もういい。
 佐生のためにではなく、もう何も考えずに書いてみてもいいのかもしれない。
 足取りがふわりと軽くなる。多分内側がいきなり空っぽになったので軽くなったのだろう。虚無というやつだ。きっとすぐに何か暗い気持ちが立ち込めてきて心を重くするだろうから、今のうちに出来るだけ、歩けるところまで歩いてしまおうと、そう思った。



   *      *      *



 写生は嫌いだ。
 目に見えているものが、頭の中ではちゃんと再現できているのに、紙の上に写し取ることがどうしてもできない。
 樹木とレンガの壁のコントラストとか。木陰の陰影とか。緑と黒を混ぜたらあの色になるだろうとか、緑で木を描いた上に灰色を塗ったらいいんじゃないかとか、ちゃんと考えているのにどんどん目に映るものと紙の上の何かは乖離していく。
 友達に見られたくなくて一人で建物の裏手のベンチまできてしまったので、なんだか余計に切なくなった。人知れず変な絵を描く自分。悲しい。
 塗っても塗ってもレンガでもなく木でもないものになっていく。
 諦めて、菰田隆也は作文用紙を取り出した。
 画板から画用紙を外し、四百字詰めのそれを挟み込む。
 小学五年生の一学期、夏休みまでに完成させる宿題が『物語を作ろう』だった。枚数制限などはなく、もう提出している友達が大半だが、隆也と女子の一人がまだ作文し終えていない。
 勿論本来なら家でやるべき宿題だけれど、図画工作の時間の中でも一番に嫌いな写生から逃げたくて、隆也は物語の続きを書き始めた。
 頭の中に話はちゃんと浮かぶ。映画みたいに、映像で浮かぶ。
 けれど隆也は真実絵心というやつがなくて、漫画家になりたいけれど絵が描けないというせつない苦しみを背負っている。お話が作れて映像が浮かぶなら映画監督とかもいいじゃない、と母親に勧められるけれど、それも駄目だ。いままで実写映画化されたどんなものも、隆也はいいとは思えなかった。俳優の容姿も演技も、本や漫画を読んで想像したものとは全然違っていた。アニメの演技は好きだったから、単に三次元が苦手なだけなのかもしれない。
 そのかわり文字を紡ぐのは苦にならなかった。
 ──やっと、死神が出せる。
 隆也の書いているのは、死神が出てくる物語だった。死にたがる人たちの前に現れ、死ぬ前にすることがあるだろうと諭す話。心残りがあると幽霊になってしまって、死神が魂を取れないからだ。
 今までその説明をすることに枚数を割いていて、ようやく主人公である死神登場に至ったのだ。
「死にたければ死ねばいーよ。でもその魂、ちゃんと役に立つように死ねよな」
 背後から、いきなり高らかに告げられて息が止まった。
 たった数行前に自分が書いた死神に、自分が話しかけられた。
「なーに、君、作家なの? それどういう話?」
 続けてそう問われ、ようやく作文用紙を見られたのだと気がついた。
 振り向いた先にいたのは、低学年の頃に見ていた特撮ドラマに出てくるような、いわゆるイケメン顔の青年だった。高校生くらいだろうか。もう二十歳になっているのだろうか。正直なところ年齢が全然わからない、ただ若くかっこいい男が、好奇心旺盛そうな瞳を隆也に向けてきている。
 一体何者なのだろう。隆也が想像していたそのままの死神を、その男はさらりと演じた。
「……これは、物語を作るっていう授業で、書いてる話」
 目上には敬語で話すという教育は受けていたが、この青年にどう対応していいのかわからなくて、隆也は友達に話しかけるように返事した。すると、
「へー。自分で考えた話? どんな話?」
 と、ベンチの後ろで膝をついたのか、背もたれの位置まで顔を下ろしてきた青年もまた友達と話すように問うてきた。
「自分で考えた話で、死神の話。あの……あなたは、誰ですか。ここ、うちの学校の敷地なんだけど」
「ん、君は初等部、俺は大学。ちゃんとこの学園の関係者です。今日の午後、高学年に演劇見せるから来てるんだ」
 たしかに午後、大学の演劇部の人が来て劇を見せてくれる予定が入っていた。
「大学生?」
「そー。佐生昂成っていうの。今日はマクベスを演るからよろしくね」
「さお……こうせい? すごい名前」
「ちょっと大仰だよねえ。君は? 普通の名前?」
「菰田隆也。普通、かな」
「かな? ……ねえ、隆也はその話、最後まで考えてあんの?」
 りゅうや、と初対面の人間に当たり前のように呼ばれちょっとびっくりした。下の名前で呼ぶのは親と親戚くらいだ。目をぱちくりさせると青年はにこりと笑った。
「俺のことも昂成って呼んでいいよ。──あ、隣座っていい?」
 大学生ならば充分大人といえる年齢なのに、全然おじさんくさくも年上っぽくもない。なんだかその雰囲気に呑まれて隆也は頷いた。
「もしかして写生嫌い?」
 隆也の隣に座るため、佐生はベンチの座面に置いた画用紙を手にとって尋ねてくる。
「頭の中にあるとおりに描けないからあんまり好きじゃない」
「そっか。じゃ俺が少し手伝っちゃお。代わりに隆也はそれ、書きあがったら俺にも見せてよ」
「これ? 俺の、話?」
 水入れに突っ込まれた筆の先にパレットの絵の具をぺたぺたとつけ、佐生が紙の上に色を刷く。
「俺、演劇サークルにいんの。いろんな人の書く話読んで演じてみたいから、隆也の話にも興味ある」
「子供が書く話なんかに?」
「誰が書く話も『なんか』にはならないよ」
 微笑を絶やさない横顔が、隆也の写生しようとしていた建物と木立を見つめたまま言う。
「ひとりの人間にひとつの世界があんの。書かれた物語はその人だけが知る世界の形をしてる。せっかく他人の世界を知ることが出来るのに、『子供の話なんか』って切り捨てるのはもったいないでしょ」
「世界?」
「そー。ひとりひとり見るものは違うから世界も人の数だけあんの」
 す、す、と筆に含ませた色を佐生は画用紙の上においてゆく。隆也の描きたかったものがそのままそこには現れている。
「見るもの、違うかな」
「同じだと思う?」
「……あなた、が描いてる絵は、俺の頭の中にあるのそのまんまだ」
「あー。じゃあ感覚が似てんのかな?」
 筆を洗って赤茶色をつけ、佐生はレンガの線を滲ませる。それだけで立体感が増す。見えているものが違うなんてことはないと思う。けれど佐生はこちらを見て笑う。
「でも俺からは見える木の節くれが、隆也のとこからはたぶん見えてないだろ。ちょっとしたずれでちょっとだけ世界は形を変えるから、やっぱりまるっきり同じとはいかない」
「そういう意味でなら、なんとなくわかる」
 頷いて、隆也は「でも」と続けた。
 そんなことを教えてくれる大人はいない。
「……変な人だね」
「変態ではないから安心してよ。──これ以上描くとさすがに隆也の絵じゃないってばれちゃうな。そろそろやめとこう」
 常に上機嫌に見える青年は、筆を水入れに戻した。そして、隆也の手から鉛筆を取り上げると、
「これ、俺のメールアドレス。死神の話、書きあがったら送ってよ。あ、メール打てる? おうちでネットできないなら、学校のネット授業のときにでも送信して」
 と、まだ白紙の作文用紙の片隅にアルファベットを並べだした。
「メールは打てるし、添付ファイルの送り方も教わった」
「お、いいね。じゃテキストファイルで送って。出来る?」
「できる、けど。……ほんとに送っても、いいの」
「いいよ。ていうかマジで見せて」
「じゃあ、見せるかわりに感想くれる? 物語を友達以外に見せるのは初めてなんだ。──……昂成」
 本当に年上の人間を名前で呼んだりしていいのかと内心臆しながら、隆也は尋ねた。
 もちろん感想はいうに決まってるよ、と朗らかに返事して、佐生はベンチから立ち上がった。そろそろ舞台の準備をしに行くという。背中を向けようとする佐生に、隆也は呼びかけた。
「あ、あの。マクベスって、どんな話」
「人殺して偉くなったおっさんがびくびくして破滅する話」
「へえ……」
 そんな話なのか、と半ば不思議に思って中途半端な返事をすると、じゃあまたね、と手を振って佐生は去っていった。
 手元に残ったのは、妙に達者な部分のある写生と、大学生のイケメンのメールアドレス。
 そして、隆也の頭の中にある死神そのものが、現実に一瞬だけ現れたという記憶。まるで出会ったこと自体が白昼夢のようにも思える可笑しな出来事だった。
 けれど給食の時間の後、五時間目と六時間目をつぶして行われた観劇の時間、佐生は舞台の上に立っていた。夢ではなかったのだ。

 たった一人の人間の存在で世界は恐ろしいほど広がりを持ってしまう。
 そのことを、十一歳の菰田隆也は知った。




 

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