文字サイズ変更≫ 

眠り姫・番外編・01

春雷

「直也。眠れないのか?」
 俺はとうとう声をかけた。
「うん。ちょっとだけ」
 ため息の音が聞こえる。
「ごめんなさい。もう平気。眠るから。心配しないで」
 ベッドの中で身動ぎしていた。睡眠に適した場所を探しているのだろう。だが、そこには存在しない。
「こっちに来い」
「でも」
「いいから」
 ホテルの部屋にベッドが二つ並んでいた。閉塞した研究所の暮らしから逃げ出したと思ったら、別の小さな箱に閉じ込められている。しかし、少なくとも、ここには結界はなかった。どこへでも出入り自由である。
「ごめんなさい」
 自分のベッドを抜け出して俺の腕に滑り込んできた。
「いいよ。おまえがごそごそしてると俺も目が冴えて眠れない」
 口先だけの御為倒しだ。俺は、この状況を楽しんでいる。直也には俺の心情が伝わっているはずだ。弟のリーディング能力は意識しなくとも俺の考えを読みとってしまう。それでも、直也はいつも遠慮がちに身を寄せてくる。
 本当は俺の事が恐ろしいのかもしれない。しかし、直也には俺の他に頼る相手がいないのだ。憐れに思うが、不安を取り除いてやれる見込みもなかった。
「今日、風が強いよね」
 窓を揺らす風に肩を震わせていた。怖がっているわけではない。日中に刺激的な出来事があると夜半まで興奮が衰えないことが直也には、よくあるのだ。
 午後いっぱい直也は、季節外れの稲光に見惚れて窓に張り付いていた。遅れて聞こえてくる雷鳴に驚いて震えながら目は飽きることなく天空の驚異を追いかける。
「早いうちから荒れていたからな」
「雷ってどうして起こるの?」
 何度、この質問に答えただろうか。いくら説明しても直也は理屈を覚えない。最初から理解する気がなかった。
「地表面の水が温められると水蒸気になって空に昇る。だが、上空は地上よりも温度が低い。冷えた水蒸気は」
 たぶん子守歌の代わりなのだろう。俺に歌を歌わせるより、理屈を喋らせる方が簡単だ。弟の小賢しい知恵に苦笑する。
「水蒸気は雲になるんでしょ?」
「そうだ」
 ちゃんと聞いていると意思表示してくる。
「地球全体はN極とS極を持つ大きな磁石であると言える。だから、地上では、どんなものでも磁力を帯びる。プラスかマイナスに傾くんだ」
 頷いているが、どこまで信じていいものか。
「そういう事情だから、上昇気流の中で擦り合わされた水滴には静電気が発生する。この時、雲の上部と地表に近い下部では電気的な偏りが生じる」
 直也は俺の腕の中で最も快適な場所を探っていた。背中を抱いて直也の無意識の探索に手を貸す。
「電圧の差が電極間に存在する気体に大きな負荷をかけることによって絶縁状態が破壊される。つまり、放電だ。上空で起これば、稲光、雲と地表の間で起これば落雷になる。分かったか?」
 応えは微かな寝息だけだ。
「まったく」
 抱え直し、眠っている弟を眺める。白い小さな顔に長い睫毛が影を落とす。口元は安心しきって僅かに開いていた。
「直也」
 呼びかけても反応はない。俺は直也の上に屈みこんだ。唇が合わさる。
 痺れるような心地良さに眩暈を覚えた。
 いつからこんな真似をするようになったのか。気が付いた時には『おやすみのキス』とカテゴライズして自分を誤魔化していた。しかし、就寝の挨拶にしては快楽が勝る。かと言って、成人男性の愛情表現としては素っ気なさ過ぎた。
 触れてはならない相手に口付ける。絶縁破壊である。電子が放出されないよう距離を置いてきたというのに結果は、この体たらくだ。
 不埒な過負荷を堪え切れない。
「おやすみ」
 安らかに眠っている弟を守ってやりたい。だが、その破壊者は自分自身でもあるのだ。
 いつまで続くのだろうか。
 折角、外界に出られたというのに、いまだに牢獄にいる気分だ。
 もちろん焦がれた地上が意に添うことばかりだと期待していたわけではない。それでも、見知らぬ人々の生活の合間に身を置き、過ごしている今の方が以前よりも幸せなはずだ。
 ここには、自由があり、選択がある。それなのに俺の心は暗い場所へと落ちていく。
「……兄さん」
 頼りない直也の声が夢の旅程から呟く。
 俺は頭を振った。目を閉じる。夜の四十万で弟の規則正しい呼吸を聞いていた。