1.同居人
 [Scene of the always same morning.]
December 12th,200X    
 如月柳漣(きさらぎゆうれん)がリビングに顔を出したのは、午前9時55分だった。
 昨夜は馴染みの客に付き合って、明け方近くまで深酒をする羽目になり、結果、この時間まで
寝過ごしてしまった。
 もっとも、陽が沈む頃から本格的な仕事が始まる彼にとっては、一日の出だしが、若干狂った
程度に過ぎない。詰まるところ、実害は殆ど無いと言えた。

 窓に引かれた遮光カーテンの隙間から、朝陽と呼ぶには高くなりすぎた陽射しが、寒々しい室
内に注がれている。
 都心の一等地に建つ高級マンションの広いリビング。静寂に包まれたそこは、強いアルコール
と煙草の匂いで満たされていた。
「やれやれ……」
 長い髪を気怠そうにかき上げると、窓際に置かれたガラスのテーブルを一瞥する。
 テーブルの上には吸い殻で山になった灰皿と、腹を潰されたビールの空き缶が数本、残りが三
分の一程度になった安物のウイスキーボトルが置かれていた。晩酌、と呼ぶにはいささか量が多
すぎる。
「自分の部屋があるのに、どうしてこんなところで寝ているんだか……」
 テーブルに向き合う形で並べられたソファーには、がっしりとした体躯の中年男性が、長い手
足を投げ出して、だらしなく眠っていた。
 日頃の不摂生により顔色は悪く、顎は無精髭に覆われている。ややくせのある髪は、襟足に届
く程に伸びてボサボサだった。
 明け方、仕事から帰ってきて、そのまま眠ってしまったのだろう。
 最早クリーニングに出したところで、救済は見込めないであろうくたびれたスラックスに、皺
だらけのワイシャツ。ネクタイと上着は、床に脱ぎ捨てられており、持ち主の性格を見事に体現
していた。
 タクシードライバーという仕事柄、外で飲むわけにもいかず、こうして部屋に戻って飲んでい
るうちに、酔いつぶれて寝てしまうのは、この男にとって別段、珍しいことではない。
 柳漣は苦笑いを浮かべながら、上着とネクタイを拾い上げると、形を整えてからハンガーに掛
ける。続いてテーブルの下段に畳んで置いてあるブランケットを広げて、そっと身体に掛けてや
った。
「……んっ」
 気配を感じたのか、男は低い呻き声をあげると、窮屈そうに寝返りをうって、再び浅いまどろ
みへと落ちていった。

 この男――芹沢雅臣(せりざわまさおみ)が、柳漣の部屋で暮らすようになってから、間もな
く2週間が経とうとしていた。

 しばらくの間、雅臣の無防備な寝顔を微笑ましそうに見守った後、柳漣は思い出したかのよう
に時計を確認すると、自分の一日を開始した。
 相棒が散らかしたテーブルの上と、シンクに溜まった食器を片付けて、洗濯機を回す。
 コーヒーメーカーに手早く水と豆をセットして電源を入れると、玄関のドアポストから朝刊を
抜き取った。先月まではどちらかと言えば、紅茶党であったが、ソファーでまどろんでいる同居
人の好みに合わせて、コーヒーに切り替えたばかりだ。
 ダイニングのテーブルで新聞に軽く目を通す。政治経済から世間話まで、幅広い情報の収集は、
彼にとって欠かせない日課であった。
 ドリップされたコーヒーの爽やかな香りが部屋中に漂い出すと、新聞を畳んで、朝食の準備を
はじめる。
 趣味は料理と公言するだけあって、柳漣は本気でやれば個人開業も夢でない程の、腕の持ち主
であった。休日ほど手間は掛けられないものの、実に慣れた手付きで、冷蔵庫の食材を次々と見
目麗しい料理に変えていく。
 今日のメニューは、トマトとチーズを挟んだホットサンドと、新鮮な野菜をふんだんに使った
サラダ、香ばしく焼いたベーコンにオムレツ。といった具合だった。
 テーブルに2人分の朝食を並べ終わった頃、ようやく雅臣がソファーから起き上がって来た。
「雅臣、おはよう……」
「ん、ああ……」
 二日酔いで痛むのか、後頭部を軽く押さえている。
 眠そうな目を擦りながら、半ば本能の赴くままに、のそのそとバスルームに向かった。その姿
はまるで冬眠から目覚めたばかりの熊のようだ。
 いつも着の身着のままで寝てしまう雅臣は、朝一番にシャワーを浴びるのが、すっかり習慣と
なっていた。この日も程なくして、シャワーの水音が遠くに聞こえはじめる。
 これもまた、変わらない朝の光景だった。

 雅臣は朝食を殆ど食べない。
 この日も出された豪華な食事に手を付けることなく、リビングのソファーにもたれ掛かって、
テレビに映るニュースをぼんやりと眺めていた。
 右手に挟んだ煙草の紫煙が揺れている。綺麗に洗われたばかりの灰皿には、既に数本の吸い殻
が溜まっていた。
「雅臣。その……少しは食べた方がいいと思うけど……」
 恐る恐るといった様子で、柳漣は声を掛けた。
 これがただのお節介だということは重々承知している。だが、ろくに食事も取らずに、酒と煙
草に浸ってばかりいる彼の健康を思うと、口に出さずにはいられなかった。
「…………」
 雅臣はマグカップに注がれたコーヒーをすすり、この美しい家主を黙って見上げた。
 別に怒っているわけではない。元より無愛想であるが、二日酔い付きの起き抜けは普段にも増
して不機嫌なだけだ。
 一方の柳漣も頭ではそう理解しているものの、暗灰色の瞳に見つめられると、ついたじろいで
しまう。
「互いの干渉はしないと言ったはずだ」
 この奇妙な「同居」は、半ば強引に柳漣が押し進めたものだった。
 ある事情から、今の雅臣には帰る場所が無い。
 弱みにつけ込んでいる自覚があるからこそ、柳漣はあまり強く言えなかった。
「ごめん。そうだったよね……冷蔵庫に入れておくから、良ければ後で食べてね」
 そう言い残すと、彼の分であった手つかずの朝食を片付けはじめる。当然のように雅臣からの
返事は無いし、また求めてもいなかった。
 全ては自分がやりたくてやっていることなのだ。彼に強制できる筋合いは、何一つ無かった。
 雅臣はこうして昼過ぎまで部屋で時間を潰し、午後になるとふらりと仕事に出掛けてしまう。
 今はこの部屋に帰ってきてくれるだけで満足だった。否、満足しなければならない。

「……雅臣」
 相変わらずだらけた姿勢のまま、テレビと向かい合う同居人の背中を見つめると、柳漣は小さ
な溜め息をついた。
 口数が少なく、無骨で、何を考えているのか分からない男だった。
 そんな彼に対する狂おしいほどの好意――同性間における友情を超越した類のものである――
が、柳漣の胸の中で熱く渦巻いている。
 女性が意中の男性にそう望むが如く、柳漣は彼の心と身体を激しく欲していた。
 勢いに任せて何度か詰め寄ったこともある。しかし、一度たりともまともに取り合ってはもら
えなかった。
 並外れた美貌の持ち主といえども、柳漣はれっきとした男性である。世の中の男全てに、倒錯
した嗜好があるわけではない。
 だから今はただ、黙って見守ることしか出来なかった。
 いつか好機が訪れることを願い続けて……。

 年の瀬も迫った12月の半ば。
 変わり映えのない一日が、今日も静かに始まろうとしていた……。
Chapter 1 同居人 -Freeloader-
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□Postscript□(反転で表示)
何てことのない日常のワンシーンになります。
私の書く男性主人公が、寝ているシーンから始まるのは標準仕様です(笑)
とっても健気な柳漣が何だか可愛いです。君の選んだ道は長く険しいぞ。頑張れ。
(2007/1/26)