光の棲家

ブラインドから差し込む陽の光は3月も半ばを過ぎると暖かさが滲んで、まるで甘い蜜のようだった。それでもその朝、智紀はキッチンで歯を磨きながら脚を押さえて小さくうめいた。
「いてっ――」
刺すように冷たい残酷な痛み。痛むのはいまいましい古傷? それとも今日これから巡り巡ってくる悪夢の予兆なんだろうか。
智紀はたいしてまだ生きてない。それでも喪失感というものをすでに知っていた。それもふたつも。

今日は午後から姉の結婚式がある。

借り物のスーツは袖を通してみると伸びきった背丈の彼には少し短かい仕立てにも思えた。鏡に映った勤めはじめの売れないホストみたいな姿を眺めて思わず苦笑が漏れる。今日だけは「あいつ」の前でできるだけ自分を完璧に見せたいと無意識に構えている気持ちがわれながら馬鹿らしくてたまらない。
窓から差し込む光が反射してきらりと光った。その先に重なった鏡の中の笑顔に智紀は振り返って机の上の写真立てを見下ろした。



高校最後の地区大会のとき、100メートル走の選手が集まって撮った写真だ。
上級生たちの前で脚を広げ胸をそらせて座り、いかにも勝ち誇ったような生意気な笑顔を浮かべてるあいつ。
智紀より2つも年下のくせにスプリントタイムは10"92。トラックで走っているとき、彼はその背中しか見たことがなかった。先にゴールした瞬間、そいつは智紀がゴールするまでの零コンマ1秒が過ぎ去る前に、決まって振り返り満面の笑みを投げかけてくる。にらんでやった。何度も、何度も。それでもタオルを手にずかずかと近づいてきて「気持ちいいな。後ろから早矢仕サンに追っかけられてるのって最高」
そう言って乳酸のたまった体をピッチにくずして息を切らせている智紀を引き起こすために手を差し伸べてくる。その手を握り返すことに甘い後ろめたさを感じはじめたとき、智紀は彼に何もかも先手を取られてしまったのだ。

休み時間のたびに教室の入り口からのぞきこむ顔。智紀は気づいていてもしばらくそいつを放っておく。上級生に混ざるとまだまだ柔らかさが目立つ顔つきが、それでも自信にたっぷりに微笑んでいるのは自分の力を知ってる者の特権だろうか。智紀と目が合ったとたんにその顔にばっと無邪気なうれしさが混じり合う。オレの何がそんなにうれしいんだよ。
「なんでいっつも来るんだよ」
「筋トレ。1日いっぱいいっぱい4階まで駆け上がるとけっこう効くんだ、これが」
「それって別にオレの教室の必要ないじゃん」
「だってご褒美あると気力沸くもん」
言ってる意味を聞き返すより先に頭の中の血が沸き立つ。智紀が言葉に詰まれば詰まるほど、ますます目の前の顔は意味深に輝きを増す。
オレはまるで猟犬のターゲットにされたウサギみたいに状況も意味もわからないまま、ただ逃げ腰になってる。
「だからおごって」
智紀はどぎまぎしてすっと差し出された掌を見下ろした。
「毎日欠かさず来れたらご褒美にヤキソバパンおごってよ」
「バカヤロ……なんでオレが……」
「やなら、別のモンでもいいよ――」
ふいに伸びてきた人差し指が智紀の下唇をなぞった。撥ねるように体をそらして手を払い落としても、涼しげな笑みは智紀を壁際まで追い詰めるようにそいつの顔から消えることはなかった。
「逃がさないからね。どうせ早矢仕サン、オレよかのろいし」

もう意味はわかってる。
でも本当の意味なんか、まるでわかりたくもなかった。
トラックで圧倒的に打ち負かされることと、その相手に、それも自分より年下の相手に翻弄されることと、自分はどっちにいらだっているんだろう。
少し脱色したように見える栗色の髪。智紀より本当は年上にすら見えるかも知れないくっきりとした大胆な目鼻立ち。なにより、甘い無邪気な微笑みがスタートラインに立つと獣の残酷さを彷彿とさせる鋭利な眼差しに豹変するのに、智紀はいつも背筋がぞくりとするほどの興奮を感じる。女にはない、少年の肉体だけが語れる危険な刹那。それに巻き込まれることを自分はいつも望んでる。同じトラックで一緒に並んで走り続けたい。たとえ軽く打ち負かされても、そのエネルギーをすぐ側で感じ取ってみたい。
走るときに皮膚を切る風の感触。体中を駆け巡る圧倒的な血の激流。同じ世界を感じていることだけが、たったひとつのつながりだと信じたかった。
でもそれはただの賞賛にすぎない。自分より2つも年下の少年に先手を取られることは智紀の敗北を決定的にしてしまう。
彼の芸術的なフォームは智紀を魅了してやまない。そのせいでその分だけあいつに気持ちのどこかでひけめを感じて、あることないことを押し付けられているんじゃないだろうか?
智紀はトラックにいるあいつのためなら、きっとなんでもするだろうと図られているのだ。

「石鹸、借して」
シャワールームの隣との仕切りからにゅっと突き出された手。とっさに反応できずに固まってしまった体は、それでもあいつが当然のように仕切りを越えて個室に入りこんできたときには衝撃でびくりと撥ねた。
頭からびっしょりと濡れた大きな瞳がいつもよりもっと透き通って輝いている。大陸の猫科の動物のようにしなやかですんなりと伸びた手足の健康な匂い。張りのある皮膚が弾く水滴は裸身を飾る細やかな宝石のようだ。
こいつならいつかオリンピックにだって出られるかもしれない。勝者はいつだって美しい。そして敗者はその姿に言葉をなくす。
自分の心臓の鼓動は薄い胸の皮膚を通り越してほとばしるシャワーの下でも十分耳に届いていた。オレに聞こえてるってことは、こいつにも聞こえてるんだろうか?
「早矢仕サン、せっ・け・ん」
噴出すシャワーの水流に頭をつっこんで智紀の耳元で囁く声はどこかせかすように思えた。

「早矢仕サンは大学どこ行くの?」
「さあ――部活ばっかでサボってたから、多分3流私立だろ」
「オレはどうしよっかな」
「おまえなら推薦でどこでも入れるさ。このままあと2年順調に行けばトップクラスのタイムが出せる。いつかメダルを取れる選手にだってなれるよ」
部活が終わり食堂で一緒にラーメンを食べた後、もうだれもいない校庭の真ん中を突っ切って帰り道を急ぐ。ときたま黒い影を纏ってバサバサと目の前を横切るコウモリを、智紀はまるで自分の気持ちの澱のようだと思った。さっき感じた甘い欲望は絶対に認められるものじゃない。
「早矢仕サンは大学行ったら陸上やめちゃうの?」
「いや。どん尻でも続けるつもり。好きなんだ」
言ってしまってから智紀はこれは小さな告白と同じだと思った。好きなのは走ることじゃない。走ることで結びつく場所だ。
でもそれは永久に言わないだろう。それは簡単に打ち負かされる自分の最後のプライドだから。
「早矢仕サンはえれーな。オレなんか走るのより、だれかの膝枕で耳掃除してもらう方が好き
だったりするし。ねえねえ、早矢仕サンこそオリンピック目指せば? オレ一生懸命やってるやつを応援する方が走るのよりずっと好きだ」
「なに隠居ジジイみたいなこと言ってんだよ。なんでおまえがオレを応援すんだ? 才能が違うじゃないか。オレがどう頑張ったっておまえのタイムの端っこにもひっかかんない。おまえオレをなめてんのか?」
いつもの明るい笑い顔が目の前ですっと凍りつくのを見て智紀は言い過ぎたことを後悔した。
「早矢仕サンはオレのこと、走るロボットみたいに思ってる? それ以外何も感じないと思ってる? それ以外でオレに興味ない?」
智紀が口に出かかった言葉を選んでる間にあいつは校舎の駐輪場に停めてあったチャリンコに乗って、目の前から逃げるように猛スピードで走り出した。慌てて後を追っても全然追いつかない。当たり前だ。そもそも走って追いつけないほどふたりは筋力が違う。
もう紫色に染まりきった夕暮れの街の中を智紀は小さくなる後ろ姿を追って全速力でペダルをこいだ。
それは全身にあきらめが広がって、疲労感でもう止まろうとしたときに通り過ぎた四つ角で起きた。左からトラックが来た、と思ったときはもう遅かった。

そして智紀は二度と走れなくなった。



智紀の姉は昔からひどく少女趣味で、結婚式はタレントが選ぶような都心の趣味のいい小さな教会でするのが夢だった。智紀は高校を卒業した後、都内の私立大学に通うために上京してひとり暮らしをしていたが実家は地方にあり、親戚たちはみな遠くからわざわざ式のために駆り出されたことをいまいましく思ってるようだった。
式の前、ここぞとばかり長くしつらえた花嫁のレースの裾を絵のように後ろで捧げ持つために呼び寄せられた親戚の小さな子供たちが、教会の椅子にじっと腰掛けていることができずに通路を無邪気に走り回っている。
花婿の家族はもう来ていた。ひとりを除いて。智紀は両親と一緒に挨拶に行った先で、少しすまなそうな顔で侘びを言われて、とたんに心の中が居心地の悪いもので一杯になった。
「弟の一哉はちょっと所用で遅れてまして、失礼させていただいてます」

こんな形であいつともう一度関わりを持つことになるなんて思ってもみなかった。遅れている理由を邪推して、とたんにこみ上げてくる微かな嫉妬の記憶――とうに壊れたはずの、修復できないあいつとの距離が今こうしてもう一度無理矢理繋がる。体が砕けるほどの喪失感はもう何度も味わったはずなのに。



「早矢仕サン――こんなことになるなんて思ってなかった。オレ、どうすればこれの落とし前つけられるんだろ」
「そんな必要ない。これは一哉のせいじゃない」
病院のベッドの足元でじっとたたずむ姿。固定されて吊り上げられた脚がじゃまでうつむいた顔までは智紀には見えなかったが、消え入りそうな声は語尾がはっきりと震えていた。
夜が更けて暗闇が映る病室の窓に蛍光灯がきつい光を照り返す。その中に銀白に反射する無様な自分の姿を見つめていると、手術の後で告げられたことが、もう二度と走れないことが初めてリアルに胸に迫ってきた。はからずに、左頬に生暖かい雫が伝う。唇は必死に笑い顔を作ろうとしても、いびつにひしゃげてしまうだけだった。
「オレ、走るのやめる」
枕元にゆっくりと近づいて来て智紀の顔を見下ろし一哉は震える声で言った。
「早矢仕サンが失くした物の分だけ、オレが被るのが筋だと思う。オレなんかより、早矢仕サンの方がずっとずっと走るの好きだったんだから」
「バカヤロ――」
もう悔し涙が止まらなかった。おまえは何もわかってない。オレが好きだったのは走ることなんかじゃない。オレが止まったら、おまえはきっと遠くへ、ずっと遠くへ行ってしまうから。
それでももっと耐えられないのは自分が障害物になること。そんなことでふたりの関係を汚したくなかった。
「ロボットになれよ」
一生分の気合を込めてきつくにらみつけながら智紀は唸り声を上げた。
「オレを満足させるまで、死ぬまで走り続けろ。言っとくけどオレは県大会で1位とかなんかじゃ納得しないからな。おまえなんかじゃ歯が立たないやつに必死こいて勝つ姿を見ないと満足しない」
目の前の一哉の顔が凍りついていく。もういいんだ。これで終わりだ。オレは結局永遠に負け続ける。それでも好きなやつの最高の姿を見つめ続けることだけはできるだろう。
「それが罰だ。やめたら、オレはおまえを一生許さない」
「智紀、なんてこと言うのよ!」
急な入院で自宅に荷物を取りに戻っていた姉がドアから入ってきてうろたえた声を上げた。謝りながら一哉を病室の外へ連れ出し、長い間廊下で話し込んでいた。
智紀は長い時間、歯を食いしばって泣いた。つっぷしたかったが、脚が自由にならなくて霞む天井だけを見つめて終わったものを噛み締めた。本気で守ろうとした光は、もう二度と手を触れられないところへ逃げ去って、ぼんやりとした輪郭しかわからなくなった。



式の最中、智紀は何度も入り口を振り返った。通路を挟んで隣り合った一哉の家族の席だけがぽつんとひとつだけ空いたままだ。
一哉の兄――花婿は弟にはあまり似ずに温和で人の良さそうな、休日にはバードウォッチングをするのが趣味の、それでも姉の理想通りに人の話を聞くのが上手いタイプの青年だった。
智紀が入院している間、見舞いに通っていた一哉が姉と親しくしなったのは知っていた。だからそれから1年くらいたって姉が恋人を両親に紹介したいと言い出したとき、智紀は本気で最悪の相手を想像した。智紀と2つ違いの姉はまだ女子大に通っていたから、年下の高校生を選ぶことだってできる。
しかし現れたのは一哉の兄だった。ふたりがどうして知り合ったのかはよくわからなかったが、肩透かしを食らったような気がした。あの日、姉と一哉が病院の庭のベンチで寄り添っていた姿を智紀はどうにもやるせない気持ちで窓から見つめていたのだから。



「うっす!」
事故の晩以来、一哉は毎日部活が終わった後、病室にやってくるようになった。彼いわく「すげーきてる」グラビア雑誌やコンビニ菓子を両手に持って、あの晩の悲しそうな顔が嘘のように、また以前の自信たっぷりの微笑みでベッドの脇に置いた椅子に腰掛けて智紀の脚の石膏をたまに人差し指でつつきながら、部活や学校の馬鹿話をとりとめもなく報告してくる。
「今日はタコ焼き持ってきちゃった。七条のだからマヨネーズもたっぷりでうめーんだ」
「おまえのおかげで完全にデブになりつつあんだよな、オレ」
「病人は栄養つけなきゃ。あ、カルシウムなら煮干とかの差し入れの方がいいか」
「ネコかよ、オレは」
「かも。いじわるなとこなんか、ネコそっくりだもん」
「いじわる? オレのどこが」
「だってオレを奴隷にしたじゃん」
ベッドの布団に腕を組んで顎をのせたまま、一哉は上目遣いで智紀を眺めた。入院生活が長引いたせいでずいぶん長い間一哉が走る姿を見てなかったが、スタートラインに立った時の獲物を狙うような鋭利な光がその瞳を横切るのを感じて智紀は胸の鼓動が早まった。
「オレの首に手綱をつけて走らせて、へとへとにさせて、そんで早矢仕サンはその間に女の子とデートしたりして、楽しく勝手にやるつもりなんだろ?」
「デートする相手なんかいねえよ」
「ずるい。ずるいよ。残酷だよ」
今度は少し濡れた眼差しを伏せてしばらく黙っている。布団の上につっぷしたふわふわの髪の毛に思わず掌が触れそうになったとき、姉が両手に林檎を抱えて入り口から入ってきた。
「智紀、またカズちゃんをいじめてるの?」
カズちゃん――姉はいつの間にか一哉をそう呼ぶようになっていた。甘い胸の鼓動がどことなく焼け付くような苦い感触に変わる。一哉は布団から顔を上げて甘えたような笑い顔を見せた。
「もうオレ、ボロボロにされちゃう」
「ウソ言ってんじゃねえよ! オレが何したっていうんだよ」
姉は智紀と一哉に林檎を1個ずつ放り投げて言った。
「智紀は黙ってなさい。ねえカズちゃん、中庭に行こうよ。例の話、もっと聞かせて」
「いいよ。でもオレら、あんまし一緒にいるとカップルだと思われるかも」
「あら、あたしはいいわよ。カズちゃんってめちゃカッコいいもん。見せびらかしたくなっちゃう」
「オレも構わないよ。奈美ちゃんキレイで好みだから、ええカッコしいできるし」
そう言いながら一哉は林檎に白い歯を立てて智紀を横目で見た。年上の姉を名前で呼ぶ親密さに智紀の顔は知らず知らずこわばっていた。嫉妬――認めたくない感情でもそれくらはわかる――手の中の紅い罪の果実のように甘酸っぱい苦痛が胸一杯に広がった。
走れなくなって、もうあいつの側に並んで立って一緒に風を切る心地良さも味わえなくなって、それでもこうして残酷に現実は進んでいく。だったらもうひどい言葉しか投げかけられないオレの前から消えてくればいいのに。
智紀にとって一哉の態度のひとつひとつが以前と変わらずひどく思わせぶりなものに見えて仕方なかった。しかしそれは今ではもう自分の願望が呼び込む思い違いなんだろう。一哉が毎日病院にやってくるのは、きっと姉目当てなんだ。
夕暮れのオレンジの柔らかい光が窓から差し込む中で外に目をやると、階下の中庭のベンチで一哉と姉が肩を並べて林檎をかじりながら微笑み合っていた。

それからというもの、智紀は一哉とあまり言葉を交わすことがなくなった。一哉も病室にやってくるとすぐに姉の奈美に声を掛ける。姉も一哉がやってくる時間が近づくとひどくそわそわと落ち着かなくなるし、それ以外の時間もひんぱんに携帯のメールをチェックするようになった。
「おまえともそろそろバイバイだな」
その日もやってくるなり姉と庭に出て行こうとする後ろ姿に智紀はつぶやいた。
「どうせオレはもうじき退院だ。卒業まであと半年しかない。部活もないし、おまえとも会う機会はもうなくなるからさ」
「わかってる」
智紀が小さな後悔を感じるほど、一哉はあっさりと答えた。
「オレたちを結びつけるもんなんてなんもないもんね。ただ――」
一瞬暗い眼をして一哉は呟いた。まるで理不尽な足かせをつけられた奴隷のように。
「オレは早矢仕サンを見れないけど、早矢仕サンはオレを見張れる。オレが血眼になって走ってるか、約束を守ってるか。大会の結果を見ればね」
「また! そんな約束、カズちゃん本気にすることないのよ」
姉がまた怒って智紀をにらみつけた。それを首を振って一哉がなだめる。
「いいんだ。どうせオレは早矢仕サンの奴隷だから」
その日以来一哉は病院にほとんど姿を見せなくなった。智紀はこのやり取りで決定的に一哉とのつながりが切れたことを悟った。サヨナラ。
智紀にたったひとつ残されたのは遠くで微かにきらめく光を見つめ続ける道だけだった。勝者を走らせる敗者。オレはどうしようもなくあきらめの悪い負け犬だ。
ソレデモミツメツヅケルコトシカデキナイカラ。

そしてそれは退院が決まったとき、長い間拘束されていまいましく思っていても、それでもある種の愛着で外れたギブスを眺めていたとき見つけたものだった。
「がんばれよ」「もっと骨太の男になれ!」――ふざけた落書きが散りばめられたギブスの石膏の片隅に薄いグリーンのマジックで書かれた文字。

『めちゃくちゃ好き』

慌てて書いたのか、お世辞にも上手いとは言えないひきつれた文字。
「智紀も隅におけないわね。ああ、クラスの女の子が何人か来てたから、きっとあの中のひとりじゃない? 心当たりないの?」
「ねえよ、そんなの」
それでもこんな真似するやつをちょっとはいじらしいと思った。自分と同じ、多分心を打ち明ける勇気を持てないまま、黙って相手から消えてしまうことを選ぶようなやつ。それでも自分の心の証だけはどうしても欲しかったやつ。
智紀はギブスを家に持ち帰って部屋の片隅にしばらくの間飾っていた。


智紀は高校を卒業すると都内の私大に入学した。卒業までの数カ月に一哉と話したのは数回。たいてい廊下ですれ違った時、おたがいを横目で認めて簡単な挨拶を交わす程度の。
上京してからはまったく接触すらなくなった。それでもいやでも一哉のことは伝わってきた。県大会での優勝。インターハイ3位。輝かしい戦果。
テレビの画面や新聞の写真で見る一哉は顔から幼さが完全に消えて、より精悍なエネルギーと貪欲な勝利への嗅覚を身につけた、はえ抜きのハンターの表情をしていた。今ではもう智紀の背丈をとうに越しているだろう。
一哉を媒体越しに眺めるだけで、智紀は昔の甘い胸騒ぎがよみがえってくるのを禁じえなかった。しかも、今ではそれは自分が失ったものへの憧憬と一対になってしまっている。
肌を舐めていく風と筋肉に瞬間的にみなぎる力。今の一哉は智紀にとって夢そのものだった。それでも一哉はもう自分との約束は忘れただろう。走ることは彼の選んだ道で、智紀の理不尽な要求に応えることじゃない。ふたりの距離は、離れていた時間よりも遠かった。



教会の上を鳩が旋回している。
誓いの言葉とキスが終わると式の参列者は揃って教会の入り口で列を作って賑やかに新郎新婦を出迎えた。智紀の周りには姉の女友達が大勢たむろしてブーケを受け取るのを今か今かと待ち受けている。
朗らかに、そして少し照れくさそうに笑いながら新郎と腕を組んで現れた姉が手にした鮮やかなサーモンピンクの花束を天高く放った。蒼い空に弧を描いて落下する花束を目で追って、智紀は思わず大声を上げた。
「わ?」
両手の中にすっぽりとブーケが収まったのだ。
周りの友達たちは大声で不満の叫びを上げ、男たちは声を上げて笑った。
「ひどーい! それは女がもらうもんなのに」
「奈美ったらどこ投げてんの」
「投げ直してよ」
「ええー? それはちょっと縁起が悪いんじゃないのぉ」
どうしようもなく居住まいが悪くて智紀が真っ赤な顔でブーケをつかんだまま棒立ちになっていたとき、すっと長くて形のいい腕が後ろから伸びてきてブーケーをつかんだ。
「オレにも愛のご利益ちょうだい」
一哉が智紀の手からブーケを取り上げて、にやりと笑った。

披露宴は都心のそれなりに高級なホテルで開かれた。智紀はそのままアパートに帰ればいいが、地方から上京した親戚たちは全員このホテルの上階に部屋を用意されていた。新郎と新婦は今晩ここのスィートに泊まって明日ヨーロッパへの新婚旅行に旅立つ。
夫婦の家族は宴の最中気が抜けない。ホテルの従業員に混じって愛想笑いをしながら相手方の親族に酌をして回ったり、司会の者と小さな打ち合わせをしてみたり。末席のテーブルに並べられた豪華なフルコースが食べられないまま冷めていくのを智紀は少し残念に思った。
広い会場の片隅で小さくため息をつきながら、ちらりと遅れてやってきた一哉を見やるとにこやかに笑いながら姉の女友達たちと話をしている。
すらりと伸びた背丈と長い脚。鍛え上げられた体に黒いスーツが映えて、わずかに日焼けした顔を縁取る長めに流された髪だけが高校時代知っていた通りの明るい色できらびやかなシャンデリアの光を照り返している。
よくあるように結婚式で新たな男と出会うことを夢見ている女たちは、一哉に露骨な関心を寄せているように見えた。自分を取り巻く女たちの熱っぽい眼差しからふと目をそらして一哉が壇上の姉に視線を送ると、姉がいたずらっぽい顔で微笑み返した。

不器用な叔父の長すぎるスピーチに、スライドを使った思わず笑い出したくなるような姉の捏造されたプロフィール、友達たちのからかいに満ちた祝辞とノリだけはいい歌。小さな頃からピアノが得意で音大を出た姉のために学友たちは弦楽四重奏の演奏も付けた。それに合わせて特別にステージでピアノを披露した姉がいったんお色直しのために退席したとき、智紀はふらっと下のロビーに降りた。

作りのいいソファに体を沈み込ませてポケットから煙草を取り出し火をつける。朝から息つく暇もなく駆け回っていた体にニコチンが甘く溶けていく。軽く目を閉じて紫煙を吐き出した顔の前が一瞬暗くかげった。
「早矢仕サン、いつからそんなもの吸うようになったの?」
テーブルを挟んだ向かいに一哉が座って身を乗り出して自分を眺めていた。
「――すげえ――ひさしぶり……」
それ以上言葉が出なかった。
「でもオレのことは見ててくれてたんでしょ?」
ロビーを行き過ぎる人の幾人かは何かを思い出したように一哉を眺めていく。昔からの自信に加えて今は他人に見られることの快感のようなものが目鼻立ちの整った顔に刻み付けられているのを、智紀は呆然と眺めた。
「来月、東アジア大会の選考レースに出るんだ」
「ああ、すごいな。知ってるよ。おまえは速くなった」
「そりゃあ何しろ飼い主がいいからさ」
ソファに背を預けて一哉は長い脚を組んだ。智紀は自分を正面から見つめる大きな瞳にまたあの鋭利な光が横切るのを甘い記憶とだぶらせて、信じられない気持ちのまま受け止めた。
「オレの手綱はまだ早矢仕サンが握ってるってわかってる?」
「――そんな――オレをからかうな。あんなんはガキの冗談だ。オレはとっくにそんな約束忘れてたよ」
短くなった手元の煙草を灰皿にもみ消し、それでも嘘をついたことがどうにも居心地悪くて、せわしなくまた1本取り出して火をつけた。それを見つめる一哉の顔に少し傷ついた表情が広がったのは智紀の錯覚だろうか。しばらく黙って智紀の吐き出す煙を眺めていたが、彼はふいに思い出したように言った。
「オレ今日遅れただろ。あれさ、早矢仕サンに渡したいものがあって合宿先から実家に取りに戻ったせいなんだ」
渡したい物? こいつはまだオレを思い出すこともあったのか。こんなただのしがない学生の、負け犬のオレのことを3年も忘れなかったっていうのか。
智紀は皮肉な笑いを浮かべて一哉に言った。
「なんだ。オレはてっきり、おまえはこの結婚に傷ついてふてくされてたのかと思ったよ。何しろおまえは姉貴になついてたからな」
まるでチンケなスラップスティックの漫画を見せられたように、ぷっと一哉は吹き出した。
「なんで。オレは奈美ちゃんと兄貴のこと祝福してるぜ」
そしてすぐに真面目な顔をして智紀を眺めた。
「さびしいな」
「あいかわらず早矢仕サンは、本当のことの周りを下を向いて遠巻きにぐるぐる回ってるだけなんだね」
ふいに一哉の纏った輝かしさが解けて、3年前の幼さの残る柔らかな表情が智紀の目の前に浮かんだ。こうして見ると一哉は自分より2つ年下の19歳の学生でしかないことを智紀は改めて思い返した。それでも突き放された自分との距離があまりにも遠くて、逆に屈辱感はかつてと違い不思議なほど薄らぎ、今ではひさしぶりに会えたことの懐かしさと切なさしか感じなかった。慌しく行き過ぎる人の中でしばらく黙り込んだふたりの間に遠い日の高校生活のデジャヴが柔らかく流れた。
「とにかくせっかく取りに戻ったんだから、渡したいんだ。パーティーの後、夜になったらオレの部屋に来て」
一哉は小さなメモをポケットから取り出してテーブルの上に置いた。
「1503号室。絶対来てくれなきゃ許さないからね」
立ち上がり会場に戻る後姿を追うこともできずに座り込んだままの智紀に、一哉はもう一度振り返って付け加えた。
「オレはこの3年間、早矢仕サンの奴隷として必死こいて走り込んだんだから、たまにはオレのために何かしてくれたっていいだろ?」



披露宴は10分延長しただけで無事に終わり、若い連中はホテルの外の2次会へ、年寄りたちは早々に自分の部屋に散って行った。
エレベーターに乗り込む前、智紀は一瞬のためらいで立ち止まった。思い出に浸って生きてきたこの3年間を一気に現実に駆け上らせるための小さな箱。とまどいを振り切るように微かに首を振って乗り込むと心臓の鼓動よりも滑るように早く動いた。

部屋を小さくノックすると一哉はすぐにドアを開けた。待ちかねていたことを隠そうともしないで。
こいつはいつもそうだったな――智紀は満面の笑みを浮かべてゴールで自分を待ち受けていた高校時代の一哉を思い出した。どうしてこいつはいつでもこんなにまっさらなんだ。オレはこんなにごまかしばかりなのに。
カーテンを大きく開け放した窓から高層階から臨む首都のイルミネーションが数珠つなぎにきらめいている。
「きれいでしょ」
部屋の明かりはサイドテーブルのシェードランプ以外は落とされていた。テーブルの上にはクーラーに入ったシャンパンのボトルとグラス。スーツの上着だけを脱いでその前に立った一哉は、さっきキャンドルサービスの時に見た姉よりもずっと華やいで見えた。
「おまえ、まだ成人してないじゃないか。ルームサービスなんか生意気に」
「だって今日はいい日じゃん」
片手でグラスにシャンパンを注いで一哉はいたずらっぽい顔で笑った。
「早矢仕サン――智紀とオレが兄弟になった日。オレの兄貴と奈美ちゃんが結婚したってことは、どっちが兄貴なのかな。ひょっとしてオレの方が智紀の義理の兄貴ってことにならない?」
智紀は顔を赤くして一哉をにらみつけた。
「なんでオレを呼び捨てにすんだよ」
「だってもうオレたち他人じゃないだろ」
その言葉に込められた意外な甘さにうろたえるあまり差し出されたシャンパングラスを突き返すことも忘れて、一哉から目をそらす。
「乾杯」
グラスが重なる涼やかな音。
「やっと同じ場所に追いついた記念すべき日に――カンパイ」
目の高さにグラスを掲げてもう一度一哉が呟いた。
「それ――なんだよ……それは……」
自分の声がうわずっているのをごまかそうとして智紀はシャンパンを一口あおった。弾ける泡が喉の奥を突き刺して、ますます頭の芯がしびれていく。
「智紀がオレに鎖をつけたみたいに、オレも鎖を巻き付けてやっただけさ」
一哉はテーブルを回って智紀の隣に座った。シャンパンよりもますます甘く響く声。ソファの振動で手元のグラスから金色の液体がこぼれて靴の爪先を濡らすのも智紀は気がつかなかった。
「オレ、究極の賭けをしたの。奈美ちゃんをそそのかしてアニキとくっつけようとした。そしたらもうオレら、おたがい一生縁が切れない。オレから逃げようとしても絶対に無理」
すぐ横の笑い顔が微かに邪気を帯びる。それでも智紀を見つめる眼差しはたまらなく優しかった。
「兄貴はさ、オレとまったく同じ好みなんだ。智紀、自分でわかってる? 奈美ちゃんと顔そっくりじゃない。兄貴は一目見たとたん、奈美ちゃんにメロメロになったよ。後はもう、彼女の関心を惹くように入れ知恵してやっただけ」
ふたりの肩がまともに触れる距離。自分の震えが一哉に伝わらないことだけを智紀は願った。
「なんで……なんでオレにそんなことをする」
「オレに先に言わせるの? またそうやって自分だけ負けないようにするんだ?」
長い指がグラスを取りあげてテーブルに置いた。
「いつもそうだ。智紀はいつもいつも逃げ回って――追いつけない。どうやってもするする遠くに逃げて、オレを傷つける」
そしてサイドテーブルに手を伸ばして小さなケースを取り出した。
「でもそうやってても絶対に智紀は勝てないよ。負けはしないかもしれないけど、オレに勝つなんて永遠に無理」
中にはブロンズのメダルが入っている。それを一哉は智紀の手に握らせた。
「これを手にするためにオレがどれだけの代償を払ったか、あんたにはわからない。そしてこれをあんたにくれてやるときの誇らしさも絶対にわからない」

クーラーの中の氷が溶けて崩れる音がふたりの間の沈黙を割った。
これほどの屈辱感と一哉への憧れを同時に感じたことは智紀はなかった。手の中で鈍く輝くメダルは心の中の頑なな鍵を無理矢理めちゃくちゃに壊すだけの重みを持っていた。
もう体だけではなくて声も震えている。長い時の中で錆ついた想いが喉元までせり上がるのをどうしても止めることができなかった。
「……オレはどうしようもなく負けず嫌いなんだよ。でも実際にはなんの力もないから弱っちい自分が許せない……」
「だったら試せよ」
下を向いてつぶやく智紀のシャツの喉元に手をかけて一哉はきつく自分の方へ引き寄せた。
「一生で一度くらい勝つことの気持ち良さを味わってみろよ」
もう瞳は笑ってなかった。レースの時でさえ見せたことがない極上のきらびやかな視線。
オレは狩られる。でもその時ウサギだけが猟犬の一番最良の瞬間を垣間見ることができるのだと智紀はわかった。今顔をそむけたら、この部屋を飛び出したら、オレはきっと一生後悔し続けることになる。そして永遠に負けることを恐れ続けるんだろう。智紀は閉じたくなる瞳を目の前の一哉に向けた。
「智紀、オレはずっと知ってたんだぜ。いつも待ってたんだ」
「だって……キツイ……」
「智紀……」
「だってオレはおまえにいつだってかなわない。おまえといるとオレはちっぽけで自分が嫌になる。それでも――」
食いしばった歯の隙間からようやくため息混じりのつぶやきを吐いた。
「それでもおまえが好きだった」

なんて告白。にらみ合って、おたがいの勝敗を賭けて。
「おめでと」
全身の力が抜けて頭を抱え込んだ智紀の背に一哉は手をまわし肩に頭をつけた。
「智紀の勝ち」
引き上げられた顔の前でまた新しい、今の智紀にしか絶対に見せなかっただろう顔が笑っていた。
「気分イイ? 勝利って甘いだろ」
そう、泣きたくなるほど甘い。智紀は初めて対等な勝者の余韻に酔った。言葉を忘れ、心が焼けつくようだ。
そしてゆっくりと唇が重なった。



その晩、智紀は一哉の身体の下で4年分の夢を味わった。
息が止まるほどの眩暈の中、暗闇に一哉の心臓の鼓動がリズミカルに高まるのが聞こえる。
美しい獣に身体中をついばまれて切なげに声を上げる自分が力ないモノにされることは、逆にちっぽけなこだわりから自由にされていくようだった。
憧れとがんじがらめになっていた嫉妬。征服されることを怖れていた心が、甘い唇と指先で溶かされていく。
「智紀が失くしたもの、オレが全部埋めてあげる。これからもずっと――オレは智紀の奴隷だから」
自分の中に分け入ってくる一哉はあまりにも熱くて智紀は痛みも忘れて叫び声を上げた。もっと強く、もっと奥まで、もっと乱れさせられて、おまえを全部呑みこんでしまいたい。
耳元に伏せた一哉の唇が小さなうめき声を上げて快感の痺れを伝えてくるたびに、智紀は身も蕩けるほどの征服感を味わった。
おまえはオレだけのもの。そしてオレもおまえだけの戦利品。
ふたりは一晩中絡み合っておたがいの肌の感触をすべて覚えた。
やがて愛撫の温もりとまどろみは境がなくなって、どこまでも穏やかな安息に繋がった。



目がさめたとき、智紀は自分が遠い日の夢の中で泣いていたのがわかった。
隣の枕にある後ろ向きの頭はカーテンを閉め忘れたままの窓から差し込む春の日差しに柔らかな髪を彩づかせている。光の王冠。
オレはこれからこうしてずっと一哉の最高の刹那を切り取るだろう。おまえの神話の目撃者になろう。それはだれも手にすることができないオレだけに許されたとっておきの勝利の美酒。
そっと触れた指先に安らかな休息が破られて、小さく伸びをした一哉の身体に背中から手を回した。
「智紀――」

振り返った顔は逆光で影になってる。それでもまぶしくて、まぶしくて。
たまらずそのもっと向こう側を見つめたが、捕えられた瞳はそらすことができなかった。

そして身体に光が溶け込んだ。



2004.03.11

BGM:
Glory Days(The Collectors)


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