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 (WW2後・ナチス・ユダヤ・歴史物?・純愛?/15禁)
Durch die Nacht


「ウォルフラム・ラーデンボーデン」

 名前を呼ばれ、ウォルフラムは振り返った。アパルトメントの階段に、1人の男が立っていた。柔らかな亜麻色の髪に、白く細い顔。――ユーディッシュ(ユダヤ人)だな。ウォルフラムは即座に悟った。
 自らの色素の薄い金髪を撫で上げ、懐かしそうに少し笑う。ウォルフラムが笑うと、頬にはえくぼが出来て、笑い皺が刻まれた。造りものめいた顔立ちが、途端に柔和な印象を放つ。

「君の役目を、恐らく僕は知っている。しかしその前に、熱いハーブティーでもいかがかな」

 フードの無いダッフルコートを着込み、マフラーと手袋を身にまとったウォルフラムは紙袋を片手に抱えていた。低い声は、どこまでも艶めいていて、穏やかだ。ブーツの底に付いた雪を、段差で削り落として階段を上る。他にも誰かが通ったのだろう、階段は雪が溶けて濡れていた。長身のウォルフラムが段差を踏む度、古いそれは軋んだ悲鳴を上げる。
 ユダヤ人の男が立つ踊り場に辿り着けば、ウォルフラムは改めて彼の眼を見た。

 緑色の、美しい眼だ。硬質な造りの己とは異なり、どこか女性めいた美貌の男だった。しかし、顔の割には身長が高い。190cmある自分と同じくらいだ。

 少し互いに観察をした後、ウォルフラムの碧眼がユダヤ人に問う。ついでに首を傾げてみせれば、ユダヤ人は歩き出す素振りを見せた。ウォルフラムは先を歩き、階段を上る。古いアパルトメントにエレベーターは無い。部屋は三階にあった。
 玄関の鍵を開け、扉を開く。先に客を通して、扉を閉めた。スリッパに履き替えようかと考えたものの、すぐにこの家を出る事になるかもしれないからと、ブーツのままで部屋の奥に進む。

 1DK。それがウォルフラムの部屋だ。
 紙袋をキッチンに置き、マフラーと手袋を外してハイツング(暖房機)を着けた。部屋が暖まるまで、少し時間がかかる。室内に立ち尽くしたユダヤ人へ、椅子を勧めた。ソファは無い。この部屋にある大きな家具は、椅子とテーブルと、ベッドに本棚だけだ。洗濯物は、週に一度ウァッシュサロン(クリーニング)に出す。

 コンロを着けて、湯を湧かす。カップを二つ取り出してシンクに置き、買ってきた食材を取り出した。リンゴが三つ、チーズのブロックが一つ、肉のブロックが一つに、黒パンが一つ。そして赤ワインが一本とハーブティーの缶。

「偏っていますね」

 ユダヤ人が、口を開いた。振り返ると、彼は上着を脱いで椅子の背に掛けていた。髭を剃り、三つ編みもしていない。釦のある服を身に着けた彼は、ウォルフラムより年上に見えた。

「殆ど、外で食べているから」

 自分も外套を脱ぎ、椅子の背に掛ける。部屋はだいぶ、暖かくなっていた。湧いた湯でハーブティーを作り、カップを一つ、ユダヤ人の前に置く。自分は向かいの椅子に腰を下ろし、先に一口啜った。
 ハーブ独特の香りと渋みが鼻孔を通り、躯が内部から暖まる心地がする。いうなれば、自然の一部が自分の中に芽吹いた感覚だ。

「改めて自己紹介をしよう。ご存知の通り、僕はウォルフラム・ラーデンボーデンという」

 カップを両手に包み込み、指先を暖めながらウォルフラムは微笑んだ。相対するユダヤ人の男も、人の良い微笑みをようやく浮かべた。木漏れ日の様に、心を和ませる微笑みだった。

「私の名前は、ユール・ブリュール。察しの通り、サイモンの同僚です」

 サイモン・ウィーゼンタール。ウォルフラムがその名前を聞いたのは、実はつい先日の事だった。元ナチス党員を捜査し、国やしかる機関に身柄を引き渡している男がいると。彼に協力する人間も多くいるから気を付けろと、アメリカに渡った友人の顔を思い出す。

 ―― 彼は無事に、ロサンゼルスへ着いただろうか。

 メキシコ経由で入国すると、言っていた。ふと窓の外を見れば、雪が降っていた。彼は今、故郷を離れ、暖かい異国で何を思っているのだろう。
 そう考えたのは、ほんの一瞬だった。

「これを飲んだら、ついて行くよ」

 熱いハーブティーは、温くなりつつあった。冷める前にと、それを飲む。ユールもつられる様にしてハーブティーを飲みながら、「どこへ」と呟いた。

「どこへ行くつもりで?」

 彼の問いを訝しく思い、ウォルフラムは顔を上げた。相手の中性的な顔立ちが、今は無表情だ。
 サイモンの協力者である彼が自分を訪れたのならば、この近辺は既に警察やら軍関係者やらが待機している筈だと、予測をつけていたのだが。

「僕を、軍に引き渡すのだろう」

「何故」

 ウォルフラムはますます、困惑した。今は、どこの国でも戦犯を裁判に引きずり出し、裁く事に躍起になっていると言うのに。自分もそのようになると、覚悟していたのだが。

「僕が、ナチスだったからだ」

 一瞬、室内に盗聴器でも仕掛けられているのではないかと、疑惑が過る。だが、対峙するユールの眼差しは、どこまでも穏やかだった。女性的な形の唇が、低い声を紡いだ。

「貴方はあの時、未だ若かった」

「‥僕を、知っているのか」

 あの軍服に身を包んでいた、誇らし気な自分を。あるいは、悪化する戦況の中で血と泥と煤に汚れ、ひたすら敵を殺していた自分を。きらびやかなシャンデリアの下、美しい令嬢達と踊り、酒を飲んでいた日々。
 もう二度と、繰り返されることは無いだろう。人々は戦争の処理に追われ、傷付いた躯で未然の防止策を模索している。あれから10年、今は穏やかなものだった。雪は静かに降り続け、新たに作り直された都市を閉じ込めるように積もる。この国は東と西に分断してしまったが、西側に住んでいるウォルフラムにとって、銃弾に気を遣わなくて良い日常というのは、天国のようなものだった。

「一晩」

 少しの沈黙の後、ユールは再び口を開いた。

「一晩だけ、貴方は1人のユダヤ人を看病しました」

 ハ、と。
 ウォルフラムは瞠目した。ユールは、泣きそうに顔を歪めて、微笑んだ。

「ミュンヘンの収容所に、私達の家族は送り込まれました。幸いにも、そこはガス室が無かった。幸いにも」


          *        *        *


 ガス室や、その他諸々の殺戮設備は、全ての収容所に備え付けられていた訳ではない。終戦時に、未だ建設中だったガス室もある。戦争がもう少し長く続くと、思われていたからだ。

 15歳で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の青少年組織に入ったウォルフラムは、何故か上層部に気に入られていた。容姿や血筋が、総統(ヒトラー)の好みにストライクだったからかもしれない。よく、親衛隊の人々に秘書の真似をさせられた。入隊した時から、親衛隊への出世を確保されていたような状況だった。

 その日も、親衛隊のゲオルグと共に、収容所の監査に向かっていた。親衛隊に入るだけあり、ゲオルグは健康的で美しい青年だった。
 収容所には、大量のユダヤ人がいた。彼等の多くは飢えていたが、ここの収容所にいるユダヤ人の飢餓具合は、まだマシだったと後で知る。一日目は収容所の施設で夜会を開き、二日目にゲオルグが監査を行った。その時、自分より少し年上ぐらいの少年が、自分をじっと見ていることにウォルフラムは気付いた。その時は、何も思わなかったから、すぐに視線を外した。

 その日の晩、ゲオルグとウォルフラムは、こっそり夜の散歩に出た。収容所の役員達が、何か隠していることが無い様に、見回る為である。見つかった時は見つかったで、こちらの方が階級が高いので堂々としていれば良い。
 2人で歩いていると、不意に物音が聞こえた。嫌な経験だが、ゲオルグもウォルフラムも、この音が何によって生じるか知っていた為、すぐに近くの小屋へと飛び込んだ。

「貴様等!何をしている!!」

 小屋に入り2人で銃を構えると、そこには1人の少年と2人の男がいた。2人の兵士が少年を押さえ込み、暴行を加えていたのである。加害者の2人はズボンの前を開け、それぞれの性器を少年の口と、後孔に突き立てていた。
 これに憤怒したのはゲオルグである。ゲオルグはかつて同性愛者に襲われかけた事がある上に、信心深いクリスチャンで、NS(国家社会主義ドイツ労働者党)の古参組だった。ユダヤ人を、ましてや同性を犯すなんてもってのほかなのだ。

 結局、所の責任者を叩き起こして、加害者2人を厳罰に処した。
 ゲオルグは、被害者の心情が分る為、相手がユダヤ人であれど同じ男として、強姦されていた少年をたいそう哀れんだ。親衛隊に所属する者は貴族の血筋が多く、彼等は人種の差別よりもまず、全ての人間に共通する大切なモラルを知っていた。貴族は貴族なりの、教養を備えていたのだ。後に、党内で総統暗殺を計画する勢力の多くは、こういった貴族達であった。

 他の党員の目がある事から、ゲオルグはウォルフラムに密かにユダヤ人の少年の手当てをさせたのだ。

 一晩、ウォルフラムはつきっきりで少年の治療をした。水と食料を与え、躯を拭い、排泄を手伝った。夜明け前に意識を取り戻したから、ウォルフラムは少年に風邪薬と栄養剤を飲ませ、最後にチョコレートを手渡した。

「他の人にバレないように、ここで食べて行くんだよ」

 介抱している途中で、その少年が二日日に自分を見詰めていた少年である事に気付いた。だが、それは些細な事だ。必死にチョコレートを貪った少年に、紅茶を飲ませ、少しベッドへ休ませた。彼が同胞の元へ戻った時、甘い匂いを発していたら疑われるからである。裏切り者かと。
 だから時間を置いて匂いを落ち着かせてから、少年を送り届けた。

 別れ際、ウォルフラムは相手をぎゅっと抱き締めて、「貴方の神のご加護を」と、額に口付けた。


          *         *         *


「あの時、私は救われました」

 ユールが低く、囁いた。
 震える瞳から、はらはらと涙が零れていた。緑の瞳は美しく透き通り、窓から差し込む雪の光りに輝いている。その眼で、彼はウォルフラムをまっすぐに見詰めていた。

 体当たりをされた様な、静かな感情の塊を強烈にぶつけられ、ウォルフラムは言葉を失っていた。ユールの手元に視線を落とすと、彼の手に、涙が落ちた。ハーブティーにも零れて、パツンと水の弾ける音がする。
 あの時、介抱した少年と姿が重なり、ウォルフラムは何故か慌てた。

 右を見て、左を見て立ち上がると、自分の椅子を持ち、ユールの隣へ腰を下ろした。美しいユダヤ人の男はきょとんとしていたものの、ウォルフラムが壊れ物の様に彼の涙を拭えば、綻ぶ様に笑った。

 笑った顔を見て、今度はウォルフラムが涙を零した。片手で自分の顔を覆い、項垂れる。

「君の神が、君を生かしてくれて、良かった」


 自分と彼の何が違うのか、あの夜、考えていた。
 暗闇の中で、苦しむ彼を見ながら、ずっと、ずっと。


 戦争で傷付き、多くを喪失し、絶望し彷徨う者がいる。
 虚無に喉を掻きむしりながら、生き残った人々。死んでも消えぬ大罪を背負う者、血反吐を吐く傷と一生付き合わなければならない者。


 銃弾が飛ばなくなっても、死体の腐臭がしなくなっても、穏やかな日常が続いても。
 誰が、「戦争は終わった」のだと叫んでも。
 生き続ける限り、戦争は終わらない。


           *        *        *

 両親と妹は、ナチスに殺された。あの収容所で、家族を目の前で殺され、ユールだけが生き残っていたのである。
 ガス室等の設備があれば、もっと早くに皆死んでいただろう。あれは工場の行程の様に、私達を殺して行くものなのだから。豚が生きたまま茹でられ、腹を裂かれて解体される様に、呆気無く淡々と。


 金色の輝く髪に、恐ろしく整った顔のウォルフラム。
 自分が人間である事さえ忘れてしまいそうな時、暗闇の深淵に立っていたユールを、ウォルフラムは引きずり出してくれた。暖かな陽の元へ。

 抱き締めた温もりが、その腕の強さが、ユールが人間である事を思い出させてくれた。暖かいという感情を、感覚を。そうしたら腹底で何かが爆発して、躯の奥から奥から、熱い感情の奔流を感じたのだ。恐れることはない、自分は確かに世界を愛していたのだと。
 暗闇の中で触れる温もりが、あまりにも、熱くて、良い匂いがして、柔らかかった。彼の高潔な魂が、渇いた喉を潤すようだった。


「ウォルフラム」

 名前を呼ぶと、彼は緩慢に手を下ろした。掻き上げた前髪が、切れ長の碧眼に掛かっている。眼が潤んでいて、だが、彼は救いを求めてはいなかった。断罪を求めてもいなかった。
 ただ、事実を前にして自分の選択を信じる者の眼だ。

 ―― 美しい人。

 胸が切なく痛んだ。ウォルフラムの頬に片手を添えれば、無意識か、彼は手に懐く仕草をした。

 ―― … 可愛い人。

 ん?と自分の感情に首を傾げつつも、ユールは口を開く。

「私は貴方を、機関に差し出すつもりはありません。事実、貴方は若く階級が無かった。どこの裁判所も、今は貴方以上のまともな戦犯を探し裁くことで、手一杯です」

 先程からとどまることを知らぬ、感情の動きにユールは何かむしょうにむずむずした。
 「だから、」と、眼を見詰めてくるウォルフラムの、碧眼に吸い寄せられる。

「だから私は、貴方に今のまま暮らしていて欲しい」

 そう言うと、ウォルフラムは再び泣きそうに顔を歪めた。感情の表し方がまるで子供の様だが、無駄に造形が整っている為に何もかもが美しく見える。
 ユールは衝動のままに、ウォルフラムへ口付けた。ウォルフラムは、「あれ?」と言いそうな顔をしている。涙は引っ込んだようだ。ユールは小さく、笑った。


「ねぇ、ウォルフラム。雪が止んだようですよ。散歩でもしながら、話をしましょう。今までの事も、これからの事も」


 確かに、雪は止んでいた。降り積もった雪が、眩しく光っている。その光りが窓から差し込み、室内の2人を照らし出した。ウォルフラムは穏やかに、微笑んだ。



 世界が混沌としていたあの夜、どうして今の光景を想像出来ただろうか。
 ユールは無性に、チョコレートを食べたくなった。
「ドイツ滞在時起案ネタ。タイトルはドイツ語で「宵闇越しに」(10.11.2011:若干修正)」
...2010/10/31(日) [No.540]
kane
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